『大学』の書き下し文と現代語訳:11

儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは儒者の自己修養と政治思想を説いた『大学』の解説をしています。『大学』は元々は大著の『礼記』(四書五経の一つ)の一篇を編纂したものであり、曾子や秦漢の儒家によってその原型が作られたと考えられています。南宋時代以降に、『四書五経』という基本経典の括り方が完成しました。

『大学』は『修身・斉家・治国・平天下』の段階的に発展する政治思想の要諦を述べた書物であり、身近な自分の事柄から遠大な国家の理想まで、長い思想の射程を持っている。しかし、その原文はわずかに“1753文字”であり、非常に簡潔にまとめられている。『大学』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていく。

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金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『大学』(講談社学術文庫),伊與田覺『『大学』を素読する』(致知出版社)

[白文]

曾子曰、十目所視、十手所指、其厳乎。富潤屋、徳潤身。心広体胖。故君子必誠其意。

右伝之六章。釈誠意。

[書き下し文]

曾子曰く、十目(じゅうもく)の視る(みる)所、十手(じゅっしゅ)の指す(ゆびさす)所、それ厳(げん)なるか。富は屋(おく)を潤し、徳は身を潤す。心広く体胖か(ゆたか)なりと。故に君子は必ずその意を誠にす。

右伝の六章、誠意を釈す。

[現代語訳]

曾子がおっしゃった。大勢が一緒に見る所、大勢の指が指さす所は、厳格で隠せないものである。豊かさは家屋を立派にして、徳はその身体を美しく見せる。徳を身に付ければ心は広くなり、体も豊かになってのんびりとしたものになる。そのため、君子は必ずその意志を誠実にするのである。

右は伝の六章で、誠意を解釈したものである。

[補足]

君子の有する徳を構成する『誠意』について解釈した部分であり、他者の目線や関心のある場所では、『嘘・偽り・誤魔化し』は通用しないという厳しさを説いている。裕福さと有徳の境地を並べている所に特徴がある。

[白文]

所謂修身在正其心者、身有所忿嚏、則不得其正。有所恐懼、則不得其正。有所好楽、則不得其正。有所憂患、則不得其正。心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味。此謂修身在正其心。

右伝之七章。釈正心修身。

[書き下し文]

所謂身を修むるはその心を正すに在りとは、身(こころ)に忿嚏(ふんち)する所あれば、則ちその正(せい)を得ず。恐懼する所あれば、則ちその正を得ず。楽を好む所あれば、則ちその正を得ず。憂患する所あれば、則ちその正を得ず。心焉(ここ)に在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食えどもその味わいを知らず。これを身を修むるは、その心を正すに在りと謂う。

右伝の七章。心を正しくし身を修むるを釈す。

[現代語訳]

いわゆる身を修めるとは、その心を正すことにありとは、心に憤怒の感情があれば、心が怒りに振り回されてその正しきを得ることができない。恐懼する感情があれば、恐れてしまいその正しきを得ることができない。安楽を好む感情があれば、緩んでしまいその正しきを得ることができない。憂慮する感情があれば、落ち込んでしまいその正しきを得ることができない。心が今この場所になければ、見ていても見ることができず、聞いていても聞くことができず、食べていてもその味わいがわからないのである。これは身を修めるとは、その心を正しくすることにありと言うことを示している。

右は伝の七章。心を正しくして身を修めるということを解釈している。

[補足]

君子が習得すべき『修身』の内容を、『好ましくない感情』を元にして分かりやすく説明している章であり、ここでは『憤怒・恐懼・安楽・憂患・空虚』といった心理状態に陥ることの危険を教えているのである。結論としてそれらの好ましくない感情を避けて、『心を正しくすること』が修身につながるとしている。

[白文]

所謂齋其家在修其身者、人之其所親愛而辟焉。之其所賤悪而辟焉。之其所畏敬而辟焉。之其所哀矜而辟焉。之其所敖惰而辟焉。故好而知其悪、悪而知其美者、天下鮮矣。故諺有之曰、人莫知其子之悪、莫知其苗之硯。此謂身不修不可以齋其家。

右伝之八章。釈修身齋家。

[書き下し文]

所謂その家を斎うる(ととのうる)はその身を修むるに在りとは、人その親愛する所に之きて(ゆきて)辟す(へきす)。その賤悪(せんお)する所に之きて辟す。その畏敬する所に之きて辟す。その哀矜(あいぎょう)する所に之きて辟す。その敖惰(ごうだ)する所に之きて辟す。故に好みてその悪を知り、悪みてその美を知る者は天下に鮮なし(すくなし)。故に諺にこれ有り、曰く、人その子の悪を知るなく、その苗の硯いなる(おおいなる)を知る莫し(なし)と。これを身修まらざればもってその家を斎う(ととのう)べからずと謂う。

右伝の八章。身を修め家を斎うることを釈す。

[現代語訳]

いわゆるその家を斎える(ととのえる)というのは、その身を修めることが基盤にあるのだが、人はその親愛する者の所に行けば、愛・情に溺れて偏ってしまう。賤しんで憎んでいる者の所に行けば、差別心によって偏ってしまう。その畏敬する者の所に行っても、憚ったり媚びたりで偏ってしまう。その哀れむべき者の所に行けば、同情が行き過ぎて偏ってしまう。その傲慢で怠惰な者の所に行けば、安楽に流されて偏ってしまう。そのため、好んでいる相手であってもその悪い部分を知り、嫌っている相手であってもその美点を知るというバランス感覚のある者は、天下でも少ないのである。故にことわざではこう言っている。人間は自分の子の悪い部分を知ることが少なく、その苗の大いなる繁殖の価値を知らないのだと。これは、自分の身を修めなければ、家が斎うことはないということを言っているのである。

右は伝の八章。身を修めて家を斎えるということを解釈している。

[補足]

儒教の道徳の順番として、『修身』の後に『斎家(せいか)』があることを示している。人間は感情・欲求があるために、公平中立な物事の認識がなかなかできないという特徴を持っている。この章では、人の認識を歪めて偏見を持たせる原因として、『親愛・卑賤・畏敬・傲慢・怠惰・哀憐』といった如何にも人間らしいと思える感情を取り上げている。

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