『史記 蘇秦列伝 第九』の現代語訳:4

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 蘇秦列伝 第九』の4について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 蘇秦列伝 第九』のエピソードの現代語訳:4]

「大王が秦に仕えれば、秦は必ず宜陽・成皋(ぎよう・せいこう)を求めてくるでしょう。今、この地を差し出せば、来年はまた別の領地の割譲を求めてくるでしょう。与えていれば与えるべき土地はなくなり、与えられなくなればそれまで与えた功績は無くなり、それ以後は災い(侵略)を受けるでしょう。かつ、大王の地は尽きてしまうのに、秦の求めは終わることがないのです。有限の土地を持って、無限の要求を受け容れるのは、いわゆる「怨みを買って禍を結ぶ」もので、戦わずして領土が削り取られてしまいます。臣は諺(ことわざ)にも「寧ろ鶏口となるも、牛後となるなかれ」と聞いていますが、今、西面して手をこまねいて秦に臣従するのは、まさに牛後(ぎゅうご)と呼ぶべき事態ではありませんか。そもそも、大王の賢明と韓兵の強さを持ちながら、牛後の汚名を受けることは、臣が密かに大王のために恥ずることなのです。」

これを聞くと、韓王は勃然と怒って顔色を変え、臂を張って眼を怒らせ、剣に手をかけ天を仰いで大息して言った。「寡人(わたし)がいくら不肖であっても、秦に仕えようなどとは全く思わない。今、先生は趙王の教えを伝えてくれたが、慎んで国を挙げてそれに従おう。」

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蘇秦はまた魏の襄王に言った。「大王の国土は、南に鴻溝(こうこう)・陳(ちん)・汝南(じょなん)・許・エン・昆陽(こんよう)・召陵・舞陽・新都・新妻(しんせい)があり、東には淮水(わいすい)・潁水(えいすい)・煮棗(しゃそう)・無胥(むしょ)があり、西には長城の境界があり、北には河外・巻・衍(えん)・酸棗(さんそう)があります。国土は千里四方であり、広さは小国ですが、田の間の舎屋は密集していて、牧畜を行う余地がありません。人民も車馬も多くて、日夜往来が絶えず、車輪の響きは三軍が行進しているかのようです。臣が密かに推量すると、大王の国は楚以下ではありません。

しかし、連衡論者は大王を脅して、強暴虎狼のような秦と交流させ、秦の天下侵略に協力させようとしています。しかし、もし大王が秦から攻撃された時には、その禍いに対して顧みること(助けてくれること)はありません。そもそも、強秦の権勢に依拠して自国の君主を脅かすのは、これ以上の罪はないのです。魏は天下の強国であり、大王は天下の賢王であります。それなのに、今、西面して秦に仕え、秦の東藩(とうはん)と称し、秦王の巡幸に備えて帝宮を建設し、秦法で衣冠束帯の制度を定め、春秋には秦の宗廟の祭祀に奉仕するというのは、臣が密かに大王のために恥じていることであります。」

「臣が聞くところでは、越王句践(こうせん)は戦いに疲れた士卒3000人を率いて、呉王夫差(ふさ)を干遂(かんすい)で捕虜にし、周の武王は士卒3000人、兵車300乗を率いて、殷の紂王を牧野で制したと伝えられています。句践・武王の勝利は士卒の数が多かったからでしょうか、いや、そうではありません。その能力と戦意を如何なく発揮したから勝ったのです。今、密かに聞くところでは、大王の軍は武装兵20万、蒼頭巾の足軽20万、精鋭兵20万、雑役夫10万、戦車600乗、軍馬5000頭ということですが、これは越王・句践や周の武王を遥かに上回る軍勢です。

しかし、今大王は群臣の説をお聞き入れになり、秦に臣従しようとされております。秦に仕えれば必ず土地を献上することでその忠誠を示さなければならず、まだ戦争もしないうちから国土が欠けていくことになります。およそ群臣の中で、秦に仕えるべきと説く者は、みんな姦人(不忠な裏切り者)で、忠臣ではありません。人心の身でありながら、君主の土地を割譲して外国と私的に交流し、一時の功績(一時的な平和の安定)は上げますがその後に起こる禍い(秦の侵略)を顧みていないのです。公家を破壊し、自分の一族の利益ばかり図って、外に強秦の権勢を恃み、内に自らの主君を脅かし、国土の割譲を求める者なのです。どうか、大王はどうすべきか熟考されてください。」

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「『周書』にもこうあります。『綿綿(めんめん)たるに絶たざれば、蔓蔓(まんまん)たるを如何(いかん)せん。豪リにして伐らざれば、まさに斧柯(ふか)を用いんとす(=つる草は短いうちに断ち切らないと長くなり、長くなるとどうすることもできなくなる。木も芽生えたうちに伐らなければ、大木になってしまい、斧を用いないと切れなくなる。)』と。以前から考えが定まっていないと、後になって大患が起こってからではどうすることも出来なくなります。大王が本当に臣(わたし)の言葉をお聞き入れ下さって、六国が合従して親交を結び、協力して心・意志を一つにすれば、必ずや強秦の災いはなくなることでしょう。故に、我が趙王は臣に命令して愚計を大王に提案し、盟約を求めているということなのです。大王のご回答を承りたく存じます。」

魏王は言った。「寡人(わたし)は不肖の者であり、今まで優れた教えを聞くことができなかった。しかし今、先生は趙王の教えを伝えてくださった。慎んで国を挙げてその策に従おう。」

更に蘇秦は東に赴き、斉の宣王に言った。「斉の南には泰山(たいざん)があり、東には瑯邪山(ろうやさん)があり、西には清河があり、北には勃海(ぼっかい)があり、斉はいわゆる(四方を自然の防備に恵まれた)四方要塞の国です。斉の土地は二千余里四方、武装兵は数十万、糧食は丘山のように豊富、三軍の精鋭部隊や五家の兵は、進めば鋒矢(ほうし)のように速く、戦えば雷霆のように強く、解散する時には風雨のように迅速です。もし徴兵を行うとしても、いまだ泰山の南や清河・勃海を渡った遠い地方から集めたことはありません。

臨シ(斉の都)には七万戸の家があり、臣が密かに計算してみると、一戸あたり3人の男子は下りませんので、7万戸掛ける3人で21万人となり、遠い県から徴兵しなくても、臨シの士卒だけで既に21万の兵力があるのです。また、臨シは非常に豊かで文化も充実しており、その人民はみんな笛を吹いて瑟(しつ)を鳴らし、琴を弾き竹の打楽器を叩き、闘鶏・競犬、双六・蹴鞠などに興じない者はいません。臨シの道路は、行き交う車の甑(こしき)が打ち合うほどに賑わい、人の肩と肩がぶつかり、襟を連ねれば帳のようになり、袂(たもと)を上げれば幕のようになり、汗を振るい合えば雨のようになります。家は盛んで人民は満足しており、士気が高揚しています。大王の賢明と斉の強大をもってすれば、天下に対抗できるものはありません。しかし今、斉は西面して秦に臣従しようとしておられます。これは臣(わたし)が密かに大王のために恥じていることなのです。」

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