『史記 張耳・陳余列伝 第二十九』の現代語訳:3

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 張耳・陳余列伝 第二十九』の3について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 張耳・陳余列伝 第二十九』のエピソードの現代語訳:3]

李良(りりょう)は常山(じょうざん)を平定して、帰還して報告した。趙王はまた李良に太原(たいげん,山西省)の攻略を命じた。李良は石邑(せきゆう)まで進軍したが、秦軍が井ケイ(せいけい,河北省)の険隘(けんあい)を塞いでいて、そこから前に進めなかった。秦の将軍は二世皇帝の使者だと詐って(いつわって)、李良に書面を送ったがそれは封緘(ふうかん)されていなかった。書面に書いてあったのは、

「李良はかつて朕(ちん)に仕えて、要職に就いて寵遇を受けた。李良が本当に趙に背いて秦のために動くならば、李良の罪を赦して貴位を与えるだろう。」 李良は書面を得たが、疑って信じなかった。邯鄲に引き返して、増兵を要請しようとした。しかしまだ邯鄲に到着しないところで、外出して飲酒をした百余騎を従えた趙王の姉に出逢った。李良は遠方から眺めて、趙王だと思い、平伏して拝謁した。趙王の姉は酔っていて、趙の将軍とは知らずに、騎馬の者に命じて李良に挨拶をさせた。李良は元々高貴な身分だったので、立ち上がってから従官に対して慚ずかしく(はずかしく)思った。

従官の一人が言った。「天下は秦にそむき、能力のある者がまず立っています(王を名乗っています)。かつ趙王は元々は将軍よりも身分が低かったのです。今、趙王の姉は女性なのに将軍に対して下車すらしませんでした。追いかけて殺してしまいましょう。」 李良は秦の書面を受け取ってから趙にそむきたいと思っていたが、決断できずにいた。そこにこのような李良を怒らせる出来事があったので、人を遣わして追わせ趙王の姉を道中で殺し、遂に兵を率いて邯鄲(趙の首都)を襲撃した。邯鄲は事態を知らず(何の防備もしていなかったので)、武臣と邵騒を殺すことができた。趙の人々の中には張耳・陳余の耳目になる者(情報を伝える者)が多かったので、この二人は邯鄲を脱出することができた。

張耳・陳余は兵を収めて、数万人の兵力を得ることができた。張耳に賓客が次のように説いた。「お二人は羇旅の身の上(趙人の身分のある者ではない)なので、趙を得ようとしても困難です。元の趙王の子孫を独立させ、義によってこれを扶ける(たすける)ことにすれば成功することができるでしょう。」 そこで(元の趙王の子孫の)趙歇(ちょうあつ)を探し求めて得て、立てて趙王にし、信都(河北省)に居住させた。李良が兵を進めて陳余を撃った。陳余は李良を敗った。李良は敗走して(秦の将軍の)章邯(しょうかん)に帰属した。

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章邯は兵を率いて邯鄲に至り、その住民を河内(かだい)に移住させて、その城郭(じょうかく)を破壊した。張耳は趙王歇(けつ)と共に逃亡して鉅鹿城(きょろくじょう,河北省)に入城した。秦の将軍・王離(おうり)がこれを包囲した。陳余は北のかた常山の兵を収めて数万人を得て、鉅鹿の北に陣取った。章邯は鉅鹿の南の棘原(きょくげん)に陣取り、甬道(ようどう,垣根を作って外から見えないようにした道)を築いて黄河に連絡し、王離に糧食を送った。これによって王離の軍は食糧が多くなり、鉅鹿を急襲した。鉅鹿の城中は食糧が尽き果てて、兵力も少なかったので、張耳はしばしば使者を送って、陳余に前進させようとした。

陳余も兵力が少なくて、秦軍には敵わないと考え、敢えて前進せずにいた。数ヶ月も前進しないので張耳は大いに怒って、陳余を怨み、張黶(ちょうえん)・陳沢(ちんたく)を使者として送って陳余を責めて言った。「これまで私は公と刎頸の交わりを結んできたが、今、趙王と私は朝夕(ちょうせき)の間に死のうとしている。しかし公は数万の兵を擁しながら、救援に同意してくれない。お互いのために死んでも良いとする信義はどこにいってしまったのか?いやしくも信義があるなら、どうして秦軍に攻め込んで共に死のうとしてくれないのか?そうすれば、十のうち一か二は秦に勝ってお互いの生を全うできるかもしれないのに。」

陳余は言った。「私の考えでは秦軍に攻め込んでも最後には趙を救うことができず、いたずらに軍を全滅させるだけである。かつ私が共に死のうとしないのは、趙王・張君のために秦に報復しようと思っているからだ。今、共に死ぬのは肉を飢えた虎に与えるようなもので、何の利益があるだろうか?」 張黶・陳沢は言った。「事態は既に急なのです。どうか今、死を共にして信を立ててください、後の憂慮などはどうでも良いことなのです。」 陳余は言った。「私が死んだところで無益である。しかしそこまで公が言うのであれば。」 そこで五千人の兵を出して、張黶・陳沢にまず秦軍との戦いをさせてみたが、全員が戦死してしまった。

この時、燕・斉・楚は趙の危急を伝え聞いて、みんなで救援に駆けつけてきた。張耳の子の張敖(ちょうごう)も北の代(だい)の兵を収めて、一万人余りを得てやって来た。しかしすべて陳余の陣の近くに塁壁(るいへき)を築いて立てこもり、敢えて秦軍を撃とうとはしなかった。項羽(こうう)の兵がしばしば章邯の甬道(ようどう)を断ち切り、王離の軍は食糧が欠乏した。項羽は全軍を率いて黄河を渡り、遂に章邯の軍を破った。章邯は退却して軍を解散した。諸侯の軍は鉅鹿を包囲している秦軍を攻撃し、遂に王離を捕虜にした。秦の将軍・渉間(しょうかん)は自殺した。鉅鹿を最後まで落城させなかったのは、楚(項羽)の力である。

こうして趙王歇・張耳は鉅鹿から出ることができ、諸侯に感謝した。張耳は陳余に会って、陳余が趙の救援を受け入れなかったことを責め、張黶・陳沢の所在を問うた。陳余は怒って言った。「張黶・陳沢は、どうしても戦死せよと私を責めたが、私は二人に五千の兵を与えてまず秦軍と試しに戦わせたのだが、その全員が戦死してしまったのだ。」 張耳はこれを信じず、陳余が二人を殺したと思い込んで、しばしば陳余を追及した。

陳余は怒って言った。「あなたがこんなにまで私を深く怨んでいるとは思わなかった。私が将軍の地位を去ることをそんなに惜しんでいるとでも思うのか?」 そして将軍の印綬を解いて、張耳に押し付けた。張耳は愕いて(おどろいて)受け取らなかった。陳余は起き上がって便所に行った。賓客の一人が張耳に言った。「私が聞くところによれば、『天が与えたのに受け取らなければ、逆に咎(とが)を受ける』ということです。今、陳将軍があなたに印綬を与えたのですから、受け取らないというのは天にそむことになって不祥(不吉)です。早く受け取ってください。」

張耳はその印綬を佩びて(おびて)、陳余の配下を収めることにした。陳余も便所から帰ってきて、張耳が辞退しないことを怨み、そこから走り出て行った。張耳は遂に陳余の兵を掌握した。陳余は独り部下のうちで親しい者だけ数百人と、黄河のほとりの沢に赴いて漁撈生活を送ることにした。これで陳余と張耳は遂に仲違いすることになった。

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趙王歇(ちょうおうけつ)は再び信都に居所を定めた。張耳は項羽や諸侯に従って函谷関(かんこくかん)に入った。漢の元年二月(紀元前206年)、項羽は諸侯の王を立てた。張耳は各地を遊歴したことがあるので、多くの人々に称賛され、項羽はまた普段から張耳の賢人であることを聞いていたので、趙を分割して張耳を常山王に立て、信都を国都にして治めさせた。信都は襄国(じょうこく)と改名された。

陳余の賓客の多くが項羽に言った。「陳余と張耳は一身同体の存在として趙に功績があったのです。」 しかし項羽は函谷関に入った時に陳余が従わなかったので、今、南皮(なんぴ,河北省)に居住していると聞いて、南皮付近の三県に封じた。趙王歇を移して代王にした。

張耳は封国に行き、陳余はますます怒って言った。「張耳と私は功績が等しいのに、今、張耳は王であり陳余はただの侯である。これは項羽が不公平なのである。」 斉王・田栄(でんえい)が楚にそむくと、陳余は夏説(かえつ)を使者として送って田栄に言った。「項羽は天下を宰領する地位にありながら不公平な措置をしています。諸将をすべて良い地の王にし、元の王を移して悪い地の王にしています。今、元の趙王は代にいます。どうか私に兵をお貸しください。南皮をあなたの国の藩屏(はんぺい,盾)にしてみせます。」 田栄は趙に味方を作って楚にそむきたいと思っていたので、兵を派遣して陳余に従わせた。陳余は三県の兵をすべて投入して、常山王・張耳を襲撃したのである。張耳は敗走したが、考えると頼ることのできる諸侯がいない。

張耳は言った。「漢王は私と旧交があるが、項羽もまた強くて私を王に立ててくれた。私は楚に行こうと思う。」 (占星術を知る)甘公(かんこう)が言った。「漢王が函谷関に入った時、木・火・土・金・水の五星が東井(とうせい,28宿の1つの星座)に集まりました。東井は秦の分野です。先に函谷関に到着した者が覇者になるでしょう。楚はいくら強いといえども、(漢に遅れて函谷関に着いたので)後で必ず漢に従属することになります。」 これを聞いて、張耳は漢に走った。漢王(劉邦)も宮中から引き返してきて三秦を平定し、まさに章邯を廃丘(はいきゅう,陝西省)で包囲していた。張王は漢王に拝謁し、漢王は張耳を厚遇してくれたのである。

陳余は張耳を既に敗ってしまうと、また趙の全土を掌握して、元の趙王を代から迎えて、再び趙王にした。趙王は陳余に徳ありとして、代王として立たせた。陳余は趙王が弱くて、国がやっと安定したばかりなので、封国の代には赴かずに趙に留まって趙王を補佐し、夏説を相国に任命して代を守らせた。

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