『荘子(内篇)・斉物論篇』の5

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荘子(生没年不詳,一説に紀元前369年~紀元前286年)は、名前を荘周(そうしゅう)といい、字(あざな)は子休(しきゅう)であったとされる。荘子は古代中国の戦国時代に活躍した『無為自然・一切斉同』を重んじる超俗的な思想家であり、老子と共に『老荘思想』と呼ばれる一派の原型となる思想を形成した。孔子の説いた『儒教』は、聖人君子の徳治主義を理想とした世俗的な政治思想の側面を持つが、荘子の『老荘思想』は、何ものにも束縛されない絶対的な自由を求める思想である。

『荘子』は世俗的な政治・名誉から遠ざかって隠遁・諧謔するような傾向が濃厚であり、荘子は絶対的に自由無碍な境地に到達した人を『神人(しんじん)・至人(しじん)』と呼んだ。荘子は『権力・財力・名誉』などを求めて、自己の本質を見失ってまで奔走・執着する世俗の人間を、超越的視座から諧謔・哄笑する脱俗の思想家である。荘子が唱えた『無為自然・自由・道』の思想は、その後の『道教・道家』の生成発展にも大きな影響を与え、老子・荘子は道教の始祖とも呼ばれている。荘子は『内篇七篇・外篇十五篇・雑篇十一篇』の合計三十三篇の著述を残したとされる。

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金谷治『荘子 全4冊』(岩波文庫),福永光司・興膳宏『荘子 内篇』(ちくま学芸文庫),森三樹三郎『荘子』(中公文庫・中公クラシックス)

[書き下し文]

斉物論篇 第二(続き)

物は彼に非ざるは無く、物は是(これ)に非ざるはなし。彼よりすれば則ち見えず、自ら知れば則ち之を知る。故に曰く、「彼は是に出で、是もまた彼に因る(よる)」と。彼と是と方び(ならび)生ずるの説なり。然りと雖も、方び生じ方び死に、方び死にて方び生ず。方び可にして方び不可なり。方び不可にして方び可なり。是に因り非に因り、非に因り是に因る。是を以て聖人は、由らずして(よらずして)之を天に照らす。亦(また)是(ぜ)に因るなり。

是もまた彼なり、彼もまた是なり。彼もまた一是非(いちぜひ)、此(これ)もまた一是非なり。果たして且(そ)も彼是(ひぜ)ありや、果たして且も彼是なきや。彼と是とその偶(あいて)を得ること莫き(なき)、之を道の枢(すう)と謂う。枢にして始めて其の環(あな)の中に得て以て窮まり無きものへと応ず。是もまた一つの窮まり無きものなり。非もまた一つの窮まり無きものなり。故に曰く、「明らかなるを以る(しる)に若く(しく)は莫し(なし)」と。

[現代語訳]

物はあれ(他)でないものはなく、物はこれ(私)でないものはない。他の立場からすれば見えないものも、私の立場から知ろうとすれば知ることができる。だから、「あれはこれから出て、これもまたあれに拠っている」というのだ。あれ(他)とこれ(私)とが並んで生ずるという説である。そうであっても、一緒に生じて一緒に死に、一緒に死んで一緒に生じる。可でもあり不可でもある。不可でもあり可でもある。是に拠って非に拠り、非に拠って是に拠る。そして聖人は、偏見的な分別に頼らずに、天(自然)に照らしてありのままに見る。また、是に依拠している。

これ(私)もまたあれ(他)であり、あれもまたこれである。あれもまた一つの是非であり、これもまた一つの是非である。果たしてそもそもあれ(他)とこれ(私)の区別はあるのか、果たしてそもそもあれとこれの区別はないのか。あれとこれとでその矛盾・対立を生じることがない、これを道枢(どうすう)という。扉の開閉部分の枢がはじめてその穴に収まって、窮まりのない真理へと対応することになる。是もまた一つの窮まりのない真理である。非もまた一つの窮まりのない真理である。だから、「明らかな真理を知ることに及ぶものはない」というのだ。

[解説]

『これ(私)』と『あれ(他)』を区別することで矛盾を生んでしまう相対主義を荘子が否定している部分である。『これ(私)』と『あれ(他)』、『是』と『非』を対立させる相対主義の視点から脱して、『万物斉同の真理』に到達するために道枢(どうすう)の比喩を用いたりしている。

扉の開閉の軸となっている道枢の『枢(とぼそ)』は、『丸い環(穴)』の受け止め部分と対応しているが、枢を使って自由自在に開閉ができる状態は『矛盾・対立を超越した“一”の真理』を象徴しているとされる。万物が生じては死に、死んでは生じるとか、可能であって不可である、不可であって可能であるとかいうように、仏教の『縁起』の思想にもつながるような相即性・相対性が繰り返し示されている。

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[書き下し文]

斉物論篇 第二(つづき)

指を以て指の指に非ざることを喩か(あきらか)にするは、指に非ざるを以て指の指に非ざることを喩かにするに若かざるなり(しかざるなり)。馬を以て馬の馬に非ざることを喩かにするは、馬に非ざるを以て馬の馬に非ざることを喩かにするに若かざるなり。天地は一指なり。万物は一馬なり。

[現代語訳]

指であることを用いて指が指ではないことを明らかにするのは、指ではないことを用いて指が指ではないことを明らかにすることに及ばない。馬であることを用いて馬が馬ではないことを明らかにするのは、馬ではないことを用いて馬が馬ではないことを明らかにすることに及ばない。天地は一指である。万物は一馬である。

[解説]

公孫龍(こうそんりゅう)の論理学的な分析を前提にして書かれた部分であり、荘子は『事物と概念の背後にある実在性』に迫ろうとしている。公孫龍の一派は『親指は薬指や小指ではないから、親指は指ではない』とか『黒鹿毛の馬は鹿毛の馬や芦毛の馬ではないから、黒鹿毛の馬は馬ではない』とかいう詭弁めいた論理学を駆使していたが、荘子は『指が指であると同時に指ではない・馬が馬であると同時に馬ではない』という真実を投影した道枢の立場に立って論じている。広大な天地も指一本に等しい、多様な万物も馬一頭に等しいという“悟り”めいた実在論の思想が開示されているのだ。

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