『荘子(内篇)・斉物論篇』の8

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荘子(生没年不詳,一説に紀元前369年~紀元前286年)は、名前を荘周(そうしゅう)といい、字(あざな)は子休(しきゅう)であったとされる。荘子は古代中国の戦国時代に活躍した『無為自然・一切斉同』を重んじる超俗的な思想家であり、老子と共に『老荘思想』と呼ばれる一派の原型となる思想を形成した。孔子の説いた『儒教』は、聖人君子の徳治主義を理想とした世俗的な政治思想の側面を持つが、荘子の『老荘思想』は、何ものにも束縛されない絶対的な自由を求める思想である。

『荘子』は世俗的な政治・名誉から遠ざかって隠遁・諧謔するような傾向が濃厚であり、荘子は絶対的に自由無碍な境地に到達した人を『神人(しんじん)・至人(しじん)』と呼んだ。荘子は『権力・財力・名誉』などを求めて、自己の本質を見失ってまで奔走・執着する世俗の人間を、超越的視座から諧謔・哄笑する脱俗の思想家である。荘子が唱えた『無為自然・自由・道』の思想は、その後の『道教・道家』の生成発展にも大きな影響を与え、老子・荘子は道教の始祖とも呼ばれている。荘子は『内篇七篇・外篇十五篇・雑篇十一篇』の合計三十三篇の著述を残したとされる。

参考文献
金谷治『荘子 全4冊』(岩波文庫),福永光司・興膳宏『荘子 内篇』(ちくま学芸文庫),森三樹三郎『荘子』(中公文庫・中公クラシックス)

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[書き下し文]

斉物論篇 第二(続き)

成ると虧ける(かける)とのちがい有るは、故より(もとより)昭氏(しょうし)の琴を鼓けば(ひけば)なり。成ると虧けるとのちがい無きは、故より昭氏の琴を鼓かざればなり。昭文(しょうぶん)の琴を鼓くと、師曠(しこう)の策を枝す(ほどこす)と、恵子(けいし)の梧(つくえ)に拠ると、三子(さんし)の知は幾くせり(つくせり)。皆其の盛んなるものなり。故に之を末の世に載せる。

唯(ただ)其の之を好むや、以て彼に異なる。其の之を好むや、以て之を明らかにせんとす。彼明らかにする所に非ずして之を明らかにせんとす。故に堅白(けんぱく)の昧きなる(くらきなる)を以て終り、其の子また文(父)の綸い(あげつらい)を以て終り、身を終えるまで成ること無し。是の若く(かくのごとく)にして成ると謂うべきか、我と雖も亦(また)成るなり。是の若くにして成ると謂うべからざるか、物と我と成る無きなり。

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[現代語訳]

道に成ると欠けるとの違いがある理由は、琴の名手である昭文(昭氏)が琴をかき鳴らすからである(琴をかき鳴らすことによってある音色が『成る』が、それと同時にそれとは別のかき鳴らせた可能性としての音色が『欠ける』ために、琴を弾けば成ると欠けるとの区別が生まれるのである)。

道に成ると欠けるとの違いがない理由は、琴の名手である昭文(昭氏)が琴をかき鳴らさないからである(初めから琴をかき鳴らさなければその音色には『成る』と『欠ける』の違いが生まれようが無いのである)。

昭文が琴をかき鳴らす、音楽家の師曠(しこう)が瑟の調べを調整する、弁論家の恵子(恵施)が机にもたれて思想・論理を論じるという三人の知性(技能)は、人間の知性(技能)において最高に優れたものである。三人はみんな偉大な知性や技能を持っているのである。だからこそ、その偉大さを書き残されて後世にまで伝えられているのだ。

ただ彼らは知識・技能を好んではいるが、真に『道』を好む者とは異なる。彼らは知識・技能を好んで極めることによって、『道』を明らかにしようとしている。『道』は人為の努力や才覚によって明らかにできるものではないのに、それを明らかにしようとしている。だから、弁論家の恵子(恵施)は堅白異同(けんぱくいどう)の論という愚昧な議論を行い続けて終わり、その子もまた父・恵施と同じ無意味な論理をあげつらって終わり、いずれも道を成し遂げることは出来なかった。このような三人の営為を『成る』と言えるだろうか、言えるなら凡俗な人間(私)でさえ『成る』と言えるだろう。このような偉大な三人の営為を『成らない』と言えるだろうか、言えるならいかなる物も人間も『成る』ということは無いだろう。

[解説]

琴の奏者の昭文、音楽家の師曠、弁論家の恵施という『優れた技能・才覚を持つ三人』を題材にして、人間の有意の行為(利点)による限界性を示し、必然的に起こる『道(普遍)』との隔たりを説いている。ある行為をすればそれとは別の行為の可能性が生まれるという『成』と『欠』との分離の仕組みは、人間では超越することができない。人間は自らの長所や得意の活動(有意)を用いても『道』を究めつくすことはできず、荘子は『無為自然』こそが道につながる真理だと語る。

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[書き下し文]

斉物論篇 第二(つづき)

是の故に(このゆえに)、滑れて(みだれて)疑き耀き(くらきかがやき)は、聖人の図る所なり。是が為に用いずして諸(これ)を庸(つね)あるに寓す。此れを 之れ(これをこれ)明(めい)を以てすと謂う。

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[現代語訳]

だから、乱れたはっきりしない暗い耀き、すなわち『滑疑の耀(こつぎのよう)=不明の明』こそが、聖人の思い図る所なのである。このために是非善悪の分別を用いずに、一切の存在が常にそのままある自然に依拠するのだ。この不明の明(是非分別の放棄)こそが、真の明というべきものである。

[解説]

荘子が真の智慧である『明智』について語っている部分で、荘子はこの真の智慧のことを『滑疑の耀(こつぎのよう)』という独自の概念で指し示している。滑疑の耀というのは、乱れてはっきりしない暗い耀きというのが原義だが、あるものとそれ以外のものとの価値を世間知的な偏見・独断で区別しないという『不明の明』がその本質を為している。秩序を秩序として受け止め、混沌を混沌として受け止める『滑疑の耀』は、あらゆる存在がありのままに存在し続ける『無為自然=人為・作為のない自然』に向き合う究極の人間知性のあり方である。

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