『平家物語』の原文・現代語訳26:かの西光が子に、師高と云ふ者あり~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『かの西光が子に、師高と云ふ者あり~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

鵜川合戦の事(続き)

かの西光(さいこう)が子に、師高(もろたか)と云ふ者あり。これもさうなき切者にて、検非違使五位の尉まで経上がりて、あまつさへ安元元年十二月二十九日、追難の除目(ついなのじもく)に、加賀守にぞなされける。国務を行ふ間、非法非礼を張行(ちょうぎょう)し、神社仏寺、権門勢家(けんもんせいけ)の庄領を没倒(もっとう)して、さんざんの事どもにてぞありける。たとひ召公(しょうこう)が跡を隔つといふとも、穏便の政(まつりごと)を行ふべかりしに、かく心のままにふるまふ間、同じき二年の夏の頃、国司師高が弟、近藤判官師経(もろつね)を加賀の目代(もくだい)に補せらる(ふせらる)。

目代下着(げちゃく)の始め、国府の辺に鵜川(うがわ)といふ山寺あり。折節寺僧どもが湯を沸いて(わかいて)あびけるを、乱入して追ひあげ、我が身あび、雑人(ぞうにん)ばらおろし、馬洗はせなどしけり。寺僧怒りをなして、『昔よりこの所は、国方の者の入部する事なし。先例にまかせて、すみやかに入部の押妨(おうぼう)停めよや(とどめよや)』とぞ申しける。目代大きに怒つて、『先々の目代は、皆不覚でこそいやしまれたれ。当目代においては、すべてその儀あるまじ。ただ法に任せよ』と云ふ程こそありけれ、寺僧どもは、国方の者を追出(ついしゅつ)せんとす。

国方の者どもは、次で(ついで)を以て乱入せんと、打合ひ張合ひしけるほどに、目代師経が秘蔵しける馬の足をぞ打ち折りける。その後は互に弓剪(きゅうせん)兵杖(ひょうじょう)を帯して、射あひ切りあひ、数刻戦ふ。夜に入りければ、目代叶はじとや思ひけん、引き退く。その後当国の在聴等(ざいちょうら)、一千余人催し集めて、鵜川に押し寄せ、坊舎一宇も残さず皆焼き払ふ。鵜川と云ふは、白山(はくさん)の末寺(まつじ)なり。この事訴へんとて進む老獪誰々ぞ。智釈(ちしゃく)・学明(がくみょう)・宝台坊・正智・学音・土佐の阿闍梨(あじゃり)ぞ進みける。白山三社八院の大衆、ことごとく起こりあひ、都合その勢二千余人、同じき七月九日の日の暮れ方に、目代師経が館(たち)近うこそ押寄せたれ。

今日は日暮れぬ。明日の軍(いくさ)と定めて、その日は寄せでこらへたり。露吹き結ぶ秋風は、射向(いむけ)の袖をひるがへし、雲ゐを照らす稲妻は、甲(かぶと)の星をかがやかす。目代叶はじとや思ひけん。夜逃げにして京へ上る。明くる卯の刻に押し寄せて、鬨(とき)をどつとぞ作りける。城の中には音もせず。人を入れて見せければ、『皆落ちて候』と申す。大衆(だいしゅ)力及ばで引き退く。

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[現代語訳・注釈]

あの西光(信西)の子どもに師高(もろたか)という者がいた。この男もなかなかの切れ者で、検非違使の五位尉まで昇進して、事もあろうか安元元年12月29日の追儺の除目で加賀守に任じられた。国務を担いながらも、違法な事柄や前例の無いことを強引に行って、神社や仏寺、権門勢家の荘園・領地を没収するなど、散々なやりたい放題の仕事ぶりであった。例え、周の名君である召公には及ばないとしても、穏便に行政を行うべきであるのに、このような我がまま放題の振る舞いをしたので、安元二年の夏頃に、国司・師高の弟である近藤判官師経(もろつね)が、加賀の目代として赴任してきた。

師経が着任してすぐ、国府の近くに鵜川という山寺があったが、その寺の僧侶たちがお湯を沸かして入浴しているところに、師経たちが乱入して僧侶たちを追い出し、自分がお湯を浴びて、下僕たちを馬から降ろして汚れた馬まで洗わせた。僧たちは怒って、『昔からこの寺の領地には、国府の役人が入ったことなどない。先例に従ってすぐに乱暴を止めなさい』と申し上げた。目代の師経は非常に怒って、『今までの目代は思慮が足らないために軽く見られたのだ。今度の目代は今までとは違う。ただ法権に従ってもらう』と言ったが、寺僧達は国府の役人を逆に追い出そうとした。

国府の役人達は押し入ろうとして、押し合い張り合いの乱闘になったが、そのうち、目代師経は秘蔵の馬の脚を折ってしまった。その後は、お互いに弓矢や太刀を持ち出してきて、矢を射ち合い刀で切り合ったりして、暫くの間は戦になった。夜になって目代もこれは敵わないと思って、国府へと退却した。その後、加賀国在庁の武士を一千人程かき集めてきて、鵜川に押し寄せ、寺の建物を一つ残さず焼き払ってしまった。鵜川という寺は白山の末寺である。この焼討ちの事態を白山神社に訴えようとする老僧たちは誰か。智釈、学明、宝台坊、正智、学音、土佐阿闍梨が白山本宮へ赴いた。白山三社八院の大衆全て立ち上がって、都合その数二千余人が、七月九日の暮れ方に目代師経の館へと逆に押し寄せたのである。

しかしその日はもう暗くなっていたので、明日戦うことに決めて、その日は攻撃せずに待機した。露を吹き寄せて玉にする秋風が、鎧の左袖を翻し、雲を照らす稲妻が兜の鋲を光らせている。目代はこれはとても敵わないと思ったのだろう。夜逃げしてしまって、京に上った。翌日の卯の刻に白山の僧侶たちが押し寄せて、閧の声を上げた。館の中からは物音がしない。人を入れて調べてみると、『皆逃げてしまっていません』という答えである。大衆は逃げられてはどうしようもないので、引き上げた。

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