『平家物語』の原文・現代語訳36:さる程に、山門には大衆起つて僉議す~

13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『さる程に、山門には大衆起つて僉議す~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

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『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

[古文・原文]

座主流の事(続き)

さる程に、山門には大衆(だいしゅ)起つて僉議(せんぎ)す。「そもそも義真和尚より以来、天台座主始まつて五十五代に至るまで、未だ流罪の例を聞かず。つらつら事の心を案ずるに、延暦の頃ほひ、皇帝は帝都を立て、大師は当山に攀じ上りて(よじのぼりて)、四明(しめい)の教法をこの所に弘め(ひろめ)給ひしより以降、五障の女人跡絶えて、三千の浄侶(じょうりょ)居を占めたり。

嶺には一乗読誦(いちじょうどくじゅ)年ふりて、麓には七社の霊験日あらたなり。かの月氏の霊山は、王城の東北大聖の幽窟(だいせいのゆうくつ)なり。この日域(にちいき)の叡岳(えいがく)も、帝都の鬼門にそばだちて、護国の霊地なり。代々の賢王智臣、この所に壇場(だんじょう)を占む。末代ならんからに、いかでか当山に瑕(きず)をば付くべき。こは心憂し」とて、喚き叫ぶと云ふ程こそありけれ、満山の大衆残り留まる者もなく、皆東坂本へ降り下る。

十禅師権現(じゅうぜんしごんげん)の御前にて、大衆又僉議す。「そもそも我等粟津へ行き向つて、貫首(かんしゅ)をば奪ひ留め奉るべし。但し、追立の欝使(うつし)、領送使(りょうそうし)あるなれば、左右なう取り得(とりえ)奉らん事あり難し。今は山王大師の御力の外、又頼み奉る方なし。まことに別の子細なく、取り得奉るべくば、ここにて先づ一つの瑞相(ずいそう)を見せしめ給へ」と、老僧ども肝胆を砕いて祈念しけり。

ここに無動寺法師乗圓(じょうえん)律師が召し使ひける鶴丸と云ふ童(わらわ)あり。生年十八歳になりけるが、心身を苦しめ、五体に汗を流いて、俄に狂ひ出でたり。「われ、十禅師権現の乗り居させ給へり。末代と云ふとも、いかでか我が山の貫首(かんしゅ)をば、他国へは移さるべき。生々世々(しょうじょうせぜ)に心憂し。さらんに取りては、われこの麓に跡を留めても何にかはせん」とて、左右の袖を顔におし当てて、さめざめと泣きければ、大衆これを怪しみて、

「まことに十禅師権現の御託宣にておはしまさば、我等験(しるし)を参らせん、一々に本の主に返し給へ」とて、老僧共四五百人、手々に持つたる数珠どもを、十禅師権現の大床の上へぞ投げ上げたる。かの物狂ひ走り廻り、広ひ集めて、少しも違へず、一々に、皆本の主にぞ配りける。大衆、神明の霊験あらたなることの尊さに、皆掌を合わせて、随喜の感涙をぞ催しける。

「その儀ならば、行き向つて奪ひ留め奉れや」と云ふ程こそありけれ。雲霞(うんか)の如くに発向す。或は志賀・唐崎の浜路に、歩みつづける大衆もあり、或は山田・矢橋(やばせ)の湖上に、舟押し出す衆徒もあり。これを見て、さしも厳しげなりつる追立の欝師(おったてのうつし)、領送使、散り散りに皆逃げ去りぬ。

[現代語訳・意訳]

座主流の事(続き)

その頃、山門では衆徒らが決起して話し合いをしていました。「そもそも初代の天台座主である義真和尚以来、五十五代の今日に至るまで座主が流罪になったなどという例はない。つらつらこの原因を考えてみると、延暦の昔に、桓武天皇が都を造営され、伝教大師がこの山に攀じ登って天台宗の教えを当地にお広めになって以来、五障を持つ女人が入山することもなく、三千人の徳の高い僧が住んでいる。

山の峰には法華経を読む声が長年絶えず、麓には日吉山王七社の霊験が日々新たである。あの月氏の霊山は王城の東北にあって、釈迦のような大聖が隠棲する洞窟となっている。この日本の比叡山も都の鬼門に聳え立ち、護国の霊地となっているのだ。代々の賢王や名臣は、この霊地を尊重して寄進をした。末代になったからと、どうしてこの霊山に傷を加えて良いものだろうか。これは憂うべきことだ」と言って、喚き叫び、全山の大衆はみんな東坂本に向かって駆け下りていった。

十禅師権現(比叡山の東麓にある権現)の前で、衆徒は集まってまた話し合いの集まりを開きました。「さて、我々は粟津へと向かい、座主を奪い返して奉ろう。ただし、追い立ての役人や護送の役人がいるから、何事もなく無事に奪い返すというのは難しいだろう。今は、山王権現のご助力の他には、何一つ頼みにできるものはない。本当に大きな問題がなく座主を取り返すことができるなら、ここで瑞相を現したまえ」と老僧たちは社に向かって必死の思いで祈念しました。

ここに、無動寺の法師・乗円律師が召し使っている鶴丸という童がいます。今年で年齢は十八歳になりますが、心身の苦しみを訴えて、体中に汗を流し、突然に発狂したようになりました。「私は十禅師権現が乗り移った者だ。末代といっても、どうして我が山門の座主を他国に移して良いだろうか。未来永劫にわたって憂慮すべき事態だ。もしそのような事態を許せば、私がこの麓に留まっていても一体何になるだろうか(何にもならないし意味がないのだ)」と、左右の袖を顔に押し当てて、さめざめと泣き出すと、大衆たちはこれを怪しく思って、

「本当に十禅師権現の御託宣ならば、我々にその証拠をお見せ下さい。これらをすべて、元の持ち主にお返し下さい」と言って、老僧四~五百人が持っていた数珠を好き勝手に、十禅師権現の床の上にばら撒きました。先ほどの童は走り回りながら、数珠を拾い集め、一つも間違えることなく、元の持ち主へと配ったのでした。 大衆は神明の霊験があらたかなる事の尊さに、みんなで手を合わせて感激の涙を流しました。

「よし権現様の託宣があるのならば、座主の所へ行って奪い返してしまえ」と叫ぶとすぐに、みんなは雲霞のように飛び出して行きました。あるいは志賀・唐崎の浜を歩き続ける僧兵がいて、また山田・矢橋の湖上に舟を漕ぎ出す衆徒もいました。これ(僧兵が大挙してやって来る様子)を見て、あれほど厳しくしていた追い立ての役人と護送の役人たちは、みんな散り散りになって逃げてしまいました。

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