『枕草子』の現代語訳:11

清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

『枕草子』は池田亀鑑(いけだきかん)の書いた『全講枕草子(1957年)』の解説書では、多種多様な物事の定義について記した“ものづくし”の『類聚章段(るいじゅうしょうだん)』、四季の自然や日常生活の事柄を観察して感想を記した『随想章段』、中宮定子と関係する宮廷社会の出来事を思い出して書いた『回想章段(日記章段)』の3つの部分に大きく分けられています。紫式部が『源氏物語』で書いた情緒的な深みのある『もののあはれ』の世界観に対し、清少納言は『枕草子』の中で明るい知性を活かして、『をかし』の美しい世界観を表現したと言われます。

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石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

[古文・原文]

「村上の御時に、宣耀殿の女御と聞えけるは、小一条の左の大臣殿(おほいとの)の御女(おむすめ)におはしけると、誰かは知りたてまつらざらん。まだ姫君と聞えける時、父大臣(おとど)の教へ聞え給ひけることは、『一には、御手を習ひ給へ。次には、琴の御琴を、人より異(こと)に弾きまさらむとおぼせ。さては、古今の歌廿巻(にじゅっかん)を、皆うかべさせ給ふを、御学問にはせさせ給へ』となむ、聞え給ひけると、きこしめしおきて、

御物忌(おんものいみ)なりける日、古今を持てわたらせ給ひて、御几帳(みきちょう)をひき隔てさせ給ひければ、女御、例ならずあやしと、おぼしけるに、草子をひろげさせ給ひて、『その月、何のをり、その人の詠みたる歌は、いかに』と、問ひきこえさせ給ふを、かうなりけり、と心得たまふも、をかしきものの、ひがおぼえをもし、忘れたるなどもあらば、いみじかるべき事と、わりなう思し乱れぬべし。

その方におぼめかしからぬ人、二三人ばかり召し出でて、碁石(ごいし)して数置かせ給ふとて、強ひ聞えさせ給ひけむほどなど、いかにめでたうをかしかりけむ。

[現代語訳]

中宮定子は「村上帝の御世に、宣耀殿の女御と申し上げるお方がいましたが、このお方が小一条の左大臣殿の姫君であるということは誰もが存じ上げていることでした。まだ入内(じゅだい)しておらず姫君であった時に、父である大臣が姫に教え申し上げたことは、『まず第一に、習字(筆書き)を習いなさい。第二は、琴の琴を、人よりも特別に上手に弾けるように努力しなさい。そして、古今和歌集の歌を二十巻全部覚えてしまって、それをあなたの学問にしなさい』ということでしたが、これを帝はお聞きになられていて、

帝は物忌の日に古今集をお持ちになって女御の部屋にいらっしゃり、(自分の姿が見えないように)几帳を立ててからお座りになられた。女御たちはいつもとは違う態度を怪しく思ったが、帝は古今集の草子をお開きになられて、『何の月、何の時に、誰それが詠んだ歌はどんなものか』とご質問になるので、和歌の教養を試すつもりなのかと心得て、その試みを面白いなあとは思うのだが、歌を間違って覚えていたり忘れていたりしたら大変なこと(恥辱)になってしまうので、不安に思っていた。

帝は歌の方面の教養がある女房を、2~3人呼び寄せられて、碁石を用いて二人の勝ち負けの数を数えさせようとした。帝が女御に強く参加するようにお求めになっているご様子は、どんなにか優雅で面白そうな感じだったのでしょう。

[古文・原文]

御前に(おまえ)侍ひけむ人さへこそ、羨しけれ。せめて申させ給へば、賢しう、やがて末まではあらねども、すべてつゆ違ふ事なかりけり。いかでなほ、少し僻事(ひがごと)見付けてを止まむと、ねたきまでに思しめしけるに、十巻にもなりぬ。『更に不用なりけり』とて、御草子に夾算(きょうさん)さして、大殿籠りぬるも、まためでたしかし。

いと久しうありて起きさせ給へるに、なほこの事、勝ち負けなくてやませ給はむ、いとわろし、とて、下の十巻を、明日にならば、異をぞ見給ひ合はする、とて、『今日定めてむ』と、大殿油(おおとのなぶら)まゐりて、夜更くるまでなむ、読ませ給ひける。されど、終に負け聞えさせ給はずなりにけり。

『上渡らせ給ひて、かかること』など、殿に申しに奉られたりければ、いみじう思し騒ぎて、御誦経(みずきょう)など、数多(あまた)せさせ給ひて、そなたに向ひてなむ、念じ暮し給ひける。好き好きしう、あはれなることなり」など、語り出でさせ給ふを、上も聞しめしめでさせ給ふ。

「我は、三巻四巻をだにえ見果てじ」と仰せらる。「昔は、えせ者なども皆をかしうこそありけれ。このころは、かやうなる事やは聞ゆる」など、御前に侍ふ人々、上の女房こなた許されたるなど参りて、口々言ひ出でなどしたる程は、誠に、つゆ思ふ事なく、めでたくぞ覚ゆる。

[現代語訳]

その村上帝の御世に御前に侍っていただけの女房たちまで、羨ましく思われてしまいます。帝がその女御に何とか和歌の質問に答えさせようとすれば、女御は自分を賢く見せようとして最後まで歌を詠み続けることはありませんでしたが、質問に対しては全く間違えるということも無かったのです(それほどの和歌の教養を備えた女御がいたのです)。帝はどうにかして少しでも間違いを見つけてから終わりにしようと思ったのですが、妬ましいほどに女御が正解を出し続けたので、遂に古今集は10巻にまで進んでしまいました。帝は『これ以上はもう答えなくて良い』とおっしゃって、古今集の草子にしおり(夾算)を挟んで、お二人でお休みになられたのですが、これも素晴らしいことでした。

帝は長い時間が経ってからお起きになられましたが、やはりこの歌合わせの勝負を勝ち負けのない引き分けで終わらせてしまうのは、どうにも良くない(プライドが許さない)ということで、明日になってしまうと女御たちが古今集の下の十巻の内容を別の参考書でチェックするかもしれないとお思いになって、『今日のうちに勝負を決めよう』とおっしゃって、灯火(明かり)を持ってこさせて夜が更けるまで、お読み続けになられたのでした。しかし、遂に女御は帝に負けることは無かったのでした。

『帝がお部屋にいらっしゃって、これこれこういう状況になっているのです』と、女御が父の大臣のお屋敷に使者を遣わしたので、父は非常に勝負の行く末を心配してしまい、何度も御誦経のお使いを寺に出したりもして、宮中に向かって娘が上手くやれますようにと念じて暮らしていた。父親までこういった和歌の風流の道を好き好んでおられるのは、本当に素晴らしい情趣を感じさせられます」などと、昔語りをなされると、帝も話を聞いて感心されている。

「私は3~4巻でさえ読み続けることができない」とおっしゃられる。「昔は、身分の低い者でも風流の道を楽しめる者が多くいたのです。最近はこういった話は聞かないですが」などと、中宮の女房たちと帝の女房たちで、中宮への拝謁が許されている人なども混じって、口々に感想を言い合ったりした。その時のご様子は、本当に全く余計な思惑がなくて、素晴らしいもののように感じられた。

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