『歎異抄』の第十六条と現代語訳

“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。

『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。

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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)

[原文]

第十六条

一。信心の行者、自然(じねん)にはらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶(どうぼうどうりょ)にもあひて口論をもしては、かならず廻心(えしん)すべしといふこと。この条、断悪修善(だんあくしゅぜん)のここちか。一向専修(いっこうせんじゅ)のひとにおいては、廻心といふこと、ただひとたびあるべし。

その廻心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまひらするをこそ、廻心とはまふしさふらへ。一切の事に、あしたゆふべに廻心して、往生をとげさふらうべくば、ひとのいのちは、いづるいきいるほどをまたずしてをはることなれば、廻心もせず柔和・忍辱(にゅうわ・にんにく)のおもひにも住せざらんさきに、いのちつきば、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の誓願はむなしくならせおはしますべきにや。

くちには願力(がんりき)をたのみたてまつるといひて、こころにはさこそ悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすがよからんものをこそ、たすけたまはんずれとおもふほどに、願力をうたがひ、他力をたのみまひらするこころかけて、辺地(へんじ)の生(しょう)をうけんこと、もともなげきおもひたまふべきことなり。信心さだまりなば、往生は弥陀にはからはれまひらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。

わろからんにつけてもいよいよ願力をあをぎまひらせば、自然のことはりにて柔和・忍辱のこころもいでくべし。すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまひらすべし。しかれば、念仏もまふされさふらう。これ自然なり。わがはからはざるを、自然とまふすなり。これすなはち、他力にてまします。しかるを、自然といふことの、別にあるやうに、われものしりがほにいふひとのさふらうよし、うけたまはる。あさましくさふらう。

[現代語訳]

信心の行者が、偶然に腹を立てて、悪いことをしてしまったり、同じ信仰の仲間と口論をした時に、必ず廻心(改心)しなければならないということ。このことは、悪を断ち切って善を修めるという自力救済なのだろうか。一向宗(浄土真宗)でひたすらに念仏をする人にとっては、廻心というのはただ一度だけのことである。

その廻心(改心)とは、日ごろ、他力本願の浄土真宗の教えを知らない人が、阿弥陀仏様から他力本願の智慧を賜って、普段の自力救済の心では往生できないと思い直して、元の自力に頼る気持ちを変えて、阿弥陀仏様の本願のほうを頼りにして信仰することこそ、廻心と申すべきことである。あらゆる間違った事に対して、朝夕、廻心(改心)して往生を遂げることなどできるだろうか。人間の命は儚くていつまで生きるかも分からずに死んでしまう運命の人もあるので、悪事に対して改心することができず、柔軟に調和する心や欲望に耐え忍ぶ気持ちも持てないまま命が尽きてしまうと、阿弥陀仏様のすべてを取り入れて見捨てることのない救済の本願は虚しいものになってしまうのだろうか。

口では阿弥陀仏様の本願の力を頼りにしていると言っているが、心では悪人も助けようという本願について不思議なものだと感じている。さすがに善人を助けないということはないだろうと思う程度に、無差別の本願を疑っており、阿弥陀仏様の他力だけを頼みにしようとする心にも欠けている、その疑いのために辺鄙な浄土に生まれ変わるというのは、最も嘆かわしく思っていることである。信心が定まったのであれば、往生というのは阿弥陀仏様の図らいによって実現することであり、自分自身の我の図らい(自分が善人か悪人かの区別による救済)などではないのだ。

自分が悪いことをする時にも、ますます阿弥陀仏様の本願を仰ぐのであれば、自然の道理によって柔軟に調和する心・物事に耐え忍ぶ心も湧き出てくるものである。すべてあらゆることにおいて、極楽往生するには小利口な偉ぶった思いを持たないようにして、ただ阿弥陀仏様の御恩の深さと重さをほれぼれと常に思い出すべきなのだ。そうすれば、念仏も自然に唱えることになる。これは自然な行である。私の意図がないことを、自然と申すのだ。これが即ち、他力というものである。しかし、自然ということが別の意味であるかのように、物知り顔して言う人があるということだが、これは浅ましく間違ったことである。

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