発達障害の環境要因の言及しづらさ:母親を濡れ衣で苦しめたベッテルハイムの冷蔵庫マザー説
発達障害と愛着障害の症状の見分けにくさ:ルネ・スピッツのホスピタリズム(施設症)
現代の精神医学・発達臨床心理学では、発達障害(developmental disorder)の原因は『中枢神経系(脳)の成熟障害』という生物学的原因に還元されることが多く、『親子関係・養育環境・愛情と教育などの環境要因』について語られることは殆どない。
先天性の遺伝要因も絡んだ脳機能障害として発達障害が一義的に定義されることによって、『親子関係・養育環境の関係する複雑な長期の成育歴』を聴取して解釈する労力を節約でき、『薬物療法・療育の対処法』に集中できるという精神医療・特別支援教育のメリットはある。だが、現在では軽度発達障害(ADHD,学習障害など)を中心として『各種の環境要因やストレスの関係した発達障害』も少なからず存在することが分かってきている。
現代の精神医学が『発達障害の環境要因』について言及しない理由は、子供を育てている母親や父親を責めるような形になりやすく発達障害の治療・療育にマイナスの影響を及ぼしやすいからという理由があるが、それだけではなく20世紀半ばに発達障害(特に重度の自閉症)の原因を『母親の間違った育て方・接し方』にあると根拠もなく一律に決めつけてしまった反省と反動がある。
かつて、自閉症を『母原病(母親が原因の病気)』とするような間違った『精神分析的な心因論』が流行したため、きちんと愛情・関心を注いで自閉症児を育てていた母親を不当に責めたり否定したりして苦しめる問題が起こってしまった。
精神分析家のブルーノ・ベッテルハイム(Bruno Bettelheim,1903-1990)は、1940年代に自閉症は冷たくて会話や共感能力に乏しい母親の育て方や接し方が原因であるとして、『冷蔵庫マザー(refrigerator mother)』というレッテルめいた概念を提起した。一時期は、カナー型自閉症の発見者であるレオ・カナー(Leo Kanner,1894-1981)までもがベッテルハイムの冷蔵庫マザー説に同意していたが、その後の研究で自閉症の遺伝率が9割以上であることが明らかになり、母原病の冷蔵庫マザー説をはじめとする自閉症の環境要因説は否定されることになった。
自閉症の原因は自分の冷たい非共感的な態度や感情の乏しさにあるという濡れ衣を着せられた母親たちは、育児に対する自信・誇りを喪失して罪悪感や自責感、自己否定に長く苦しめられることになったのである。大勢の母親を傷つけて苦しめた自閉症の養育要因(環境要因)の仮説のトラウマと反省によって、長らく精神医学会では重度自閉症ではないあらゆる発達障害の分野において『養育環境・親子関係・愛情と教育(虐待と無視)などの環境要因の影響度』について語ったり調べたりすることが半ばタブーになってしまった。
確かに、知的障害があって他者に注意を向けようとしない孤立型・カナー型の重度自閉症を典型として『遺伝要因が大部分を占める発達障害』があることは事実なのだが、ADHDや学習障害、アスペルガー障害のうちの軽度発達障害や愛情剥奪によって自閉症類似の症状を示す状態では『環境要因・成育環境が影響したとみられる発達障害』が存在することもまた事実である。
ルーマニアの共産党独裁政権だったチャウシェスク政権では、離婚・堕胎を禁止して労働力となる人口を強制的に増やす政策が断行されたが、その後に政権と経済が崩壊してしまったため、親が子供を養育することができなくなり養育放棄して大量の孤児が生み出されたという。
イギリスのモズレー病院の精神科医マイケル・ラターらは、チャウシェスク政権崩壊で生み出された孤児のうち、イギリスが引き取った111人の子供を追跡調査したが、4歳の時点で約6%の子供たちに言語の遅れ、他者への興味の乏しさ、自分や他人の気持ちを理解する能力の低さ、常同行動(こだわり行動)などの『自閉症に類似の症状』が見られたのだという。人見知りや対人不安によって対人コミュニケーションを回避したり、一人遊びや単独行動を特に好むような軽度の自閉症的傾向が見られる4歳児も約6%いて、親(養育者)からの愛情やケアを受けられないことによる心身発達への悪影響が疑われることになった。
更に、イギリスに渡ってきたルーマニアの孤児は、4歳児で自閉症的な傾向を示していても、2歳以前にイギリスの養父母に引き取られて愛情と関心のある温かい成育環境で育てられた場合には、6歳になる頃にその自閉症的な傾向が大幅に改善していた。遺伝的要因のみによって自閉症が発症するという従来の仮説では、『孤児の養育環境の変化(養育者による愛情・関心・ケアの増加)』によって自閉症的な症状が軽減したことを十分に説明することができない。また、ルーマニアの自閉症的傾向を示してその後に改善した孤児には、生物学的原因のみによる自閉症児に見られる『頭囲の大きい傾向』が見られなかったともいう。
アメリカの精神科医ルネ・スピッツ(Rene Spitz,1887-1974)が提唱した『ホスピタリズム(施設症)』も、最低限の食事・世話だけで愛情(スキンシップなど情緒的ケア)や関心の乏しい当時の孤児院(児童養護施設)で育てられた子供たちが、他者にあまり反応しなくなる『自閉症類似の症状』を発症することを示唆している。ルネ・スピッツが調査研究を行った20世紀半ばのスイスに大量の孤児が発生した背景には、第二次世界大戦で子供を育てていた親世代の男たちが大勢戦死して亡くなったことがある。
ルネ・スピッツの報告によると、親からの愛情や関心、スキンシップ、話しかけといった『情緒的ケア』のなかった孤児院(児童養護施設)の子供たちは、十分に衣食住の環境が整えられている場合であっても、心身の成長の遅れ・停滞や感染症などによる高い死亡率を示し、約30%の子供が幼児期~児童期を生き延びることができずに死亡したのだという。
更に、孤児院の子供たちの中には、他人と目線を合わせない、他人に注意や興味を示さない、情緒的応答性が乏しいか全くない、対人コミュニケーションを回避する、自分の殻の中に閉じこもって反応が乏しい、ぐるぐる部屋を歩き回ったり身体を揺すったりの常同行動が見られる、刺激に過敏に反応する知覚過敏があるなどの『自閉症(広汎性発達障害)に類似した症状』を示す子供が多くいたという。孤児院(児童養護施設)で母性的な愛情やケアが与えられない中で育てられた子供たちの死亡率は高く、免疫が弱くて病気がちであり自閉症的な症状も見られやすかったが、物理的環境の悪い刑務所の中で出産した実の母親から愛情やケアを与えられて育った子供たちは死亡することもなく、ほぼ健康に成長していったのだという。
ただし、当時は『発達障害・自閉症』という概念が知られていなかったのと同時に、『児童虐待』についても十分な認識が共有されていたとは言えず、高い死亡率の背景に『愛情剥奪・母性剥奪(mother deprivation)の影響』だけではなく『虐待死・最低限のケアの放棄』が含まれていた可能性は否定しきれない。
それでも、乳幼児や幼児・児童の子供にとって『母性的な愛情・ケア・スキンシップ・関わり合い』などは『心身の健全な成長』にとって欠かせないものである。つまり、『物理的な栄養』だけではなくて『心理的な栄養』も与えられなければ心身の健康や発育、社交性に有害な影響が出てしまうケース(健康にすくすくと育っていかないケース)が多いのである。
イギリスの児童精神科医・精神分析家のジョン・ボウルビィ(John Bowlby,1907-1990)は、母性的なケアから引き離される子供の心身発達の問題を『母性剥奪』という概念によって説明した。更に、母親をはじめとする特定の対象と情緒的に結びついて精神状態が安定する『愛着(attachment)』という概念を提起して、幼少期の愛着形成のパターンを分類することによって、心身の発達プロセスにおいて母子関係が関係する障害のありようを明らかにしようとした。
ジョン・ボウルビィの論文『幼児の母親に対する結びつきの性質(1958年)』は、母子関係の選択的な結びつきである愛着(アタッチメント)を前提にして、『物理的ケアの結びつき+食事や衣服を与える世話』だけではなく『乳幼児の母性愛を求める本能+情緒的ケアの結びつき』によって乳幼児の健全な心身の発育が促進されることを指摘した画期的なものであった。
乳幼児の愛着行動は『母性愛・母性的ケアを求める本能』に駆動されているのだが、それは子供の心身の健全な発育にとって必要な『心理的栄養(自分の存在が受容されて肯定されている感覚)』を摂取する目的を持ったものなのである。ジョン・ボウルビィは『母子関係の理論(愛着と喪失)』を出版して、乳幼児の精神発達にとって良好な母子関係と母性愛的な関わり合いが必要不可欠であると語っているのである。
遺伝要因による先天的な発達障害ではない子供でも、児童虐待やネグレクト(育児放棄)を受けると、他者とのコミュニケーションを回避したり表情・感情表現が乏しくなったりといった軽度自閉症に類似した特徴が見られやすくなる。虐待やネグレクトの精神発達に与える悪影響はさまざまであるが、『他者を避けて自分の殻に閉じこもる自閉症に類似の非社会的な状態』や『他者に過度に馴れ馴れしくして甘えようとする対人依存症に類似の愛情不足の状態』のどちらかになりやすい傾向が見られる。
母親をはじめとする特定の対象との愛着が損なわれたことによって生じる心身の症状や社会不適応の状態を、DSM-Ⅲでは『反応性愛着障害』と定義していた。反応性愛着障害には、特定の対象との愛着を築こうとせず他人に対する興味関心や働きかけの見られない『抑制性愛着障害』と誰でもいいから相手を選ばずに愛着を築こうとして常に他人に依存して甘えたがる『脱抑制性愛着障害』の分類があるが、いずれも特定の対象(母親)との愛着形成の失敗によって生じる心理的な問題である。
児童養護施設に入っていない子供、特別な虐待やネグレクトを受けていない子供であっても、愛着形成には何らかの偏りや問題が生じやすく(子供全体の約30%に不安定な愛着パターンが見られる)、特定の対象と適切に愛着が気づけていない状態は『子供だけではなく大人であっても精神不安定にする影響があること(誰とも心理的に強く結びついていない孤独な状態は精神的な不利益や社会不適応のリスクを高めること)』が分かってきている。
愛着形成が不安定だったり特定の他者(母親)との愛着が欠損していたりすると、『社会性・対人関係・認知・行動力・情緒安定・ストレス耐性』などに関係する心身の発達が障害されやすくなり、その一部は発達障害(自閉症・ADHD・学習障害など)に類似の症状を呈するようになってくる。『愛着障害』による対人関係やコミュニケーションなどの社会性の障害は、重症の発達障害(自閉症)のレベルにまではなりにくいが、それでも愛着障害と発達障害による『社会性(コミュニケーション能力)の障害』は成育歴を詳しく聴いていかないと簡単には見分けることができないのである。
愛着障害は母性剥奪を典型とする親の愛情や情緒的ケア、スキンシップの不足・欠如によって起こってくる心理的問題であるが、表面的な社会性やコミュニケーションの障害だけを見ると、遺伝要因と脳の機能障害だけによって発症した『発達障害(軽度の自閉症に類似の症状)』とほとんど区別することができない。現代社会において生物学的原因(遺伝要因・脳の機能障害)によるとされる発達障害が急激に増えている原因の一つとして、『社会性の障害や学習困難に対する過剰診断・診断の適用範囲の拡大(軽度発達障害の診断増加)』の影響も大きいのだが、それと合わせて『愛着障害と発達障害の混同』の要因も考えることができるだろう。
生物学的原因を中心とする発達障害の遺伝要因の影響は約70~80%とされるが、愛着障害になると環境要因(養育要因)の占める比率のほうが大きくなり、遺伝要因の影響はかなり小さくなってしまう。特に最近話題になることの多い『大人のADHD(注意欠如多動性障害)』では、遺伝要因の影響が約30~40%という調査もあり、かつて考えられていたよりも環境要因(後天的な学習・経験)の影響が大きいようである。
愛着障害や環境要因をベースとした『対人関係・コミュニケーション・社会適応・遂行能力・注意力・学習能力の問題』の場合には発達障害の薬物療法とはまた異なった方法(カウンセリングや対人関係の環境調整、生活行動やコミュニケーションのトレーニングなど)による改善が期待できるということになる。
親の自責感や罪悪感、自己否定にもつながりやすい『愛着障害』という診断が専門医によって直接くだされることは少ないのだが、すべての発達上の問題の原因をすべて『先天的・生物学的な脳機能の障害』に還元してしまうと、『遺伝要因+環境要因(養育要因)』によって発症した発達障害類似の問題を呈するケースに対して、適切な治療・療育・受容的カウンセリングができないデメリットも出てきてしまう。
つまり、発達障害は先天的な脳機能の障害だから薬物療法しか効果がないという一義的な治療法の発想になってしまうと、『親や知人の心理的サポート・受容的で共感的なコミュニケーション・安定した関わりによる愛着形成・支持的カウンセリングの人間関係』といった養育要因の悪影響を緩和して環境要因を改善することのできるアプローチが過小評価されやすくなるということである。
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