中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。
『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『老子・韓非列伝 第三』について現代語訳を紹介する。
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司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)
[『史記 老子・韓非列伝 第三』のエピソードの現代語訳]
老子は楚の苦県(こけん,河南省)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人である。名は耳(じ)、字(あざな)はタン、姓は李氏といい、周王室の書庫の記録官であった。
孔子が周に行った時、老子に礼について質問すると老子は『あなたのいう古の聖賢などは人も骨も朽ち果ててしまい、ただ空言が残っただけだ。また君子というものは時流に乗れば馬車を乗り回す身分になれるが、時宜が得られなければヨモギの種が風に吹き飛ばされるように転々とするだけだ。私は「良い商人は品物を隠して込んで店を空っぽに見せかけているが、君子は盛徳を持っていてもその容貌は愚者に見える」と聞いている。あなたの驕慢と欲深さ、もっともらしい態度とみだりに燃える志向を取り去ったほうが良い。それらはあなたに何の利益ももたらさない。私があなたに告げたいのは、それだけだ。』と答えた。
孔子はその場を去って弟子たちに言った。『鳥がよく飛び、魚がよく泳ぎ、獣がよく走ることは私も知っている。走るものは網を張って捕まえることができ、泳ぐものは釣り糸を垂らして釣ることができ、飛ぶものは矢で捕えることができる。だが龍になると、風雲に乗じて天に昇っていく姿を知ることはできない。私は今日、老子に会ったが、彼は龍のような人物だった。』
老子は道徳を修めたが、その学問は自らの才能を隠して名声を求めようとしないものである。長く周にいたが周が衰えたのを見て、遂に周を去って関(函谷関)に至った。関令の尹喜(いんき)が言った。『先生は今正に隠遁しようとしていますが、何とか私のために著作を書いてください。』と。そこで老子は上下二篇の書物を書いて、道徳の意味について五千余字の文章を残して去っていった。老子がどのような生涯を送って終えたのかは誰も知らない。
ある人が、『老莱子(ろうらいし)は楚国の人である。著書が十五篇あって道家の効用について述べ、孔子と同時代を生きた人だった』と言った。老子は百六十歳以上まで生きたと言われ、あるいは二百歳以上まで生きたとされる。道を修めることで寿命を長く養ったからだろう。
孔子の死後129年経ってからの史官の記録に、『周の太史(たいし)・タンが秦の献公に謁見して、「初め秦は周と合一しましたが合一してから500年で離れ、それから70年後に覇王になる者が秦に出現します」と言った』と書かれている。ある人が言う。『タンこそが老子だ』と。またある人は『違う』というが、世間ではそのどちらが真実かを誰も知らない。老子は隠れた君子である。
老子の子は名前を宗(そう)といった。宗は魏の将軍となり、段干(だんかん,魏の邑)に封じられた。宗の子は注(ちゅう)、注の子は宮(きゅう)、宮の玄孫は仮(か)である。仮は漢の孝文帝(こうぶんてい)に仕えた。仮の子の解(かい)は、膠西王(こうせいおう)コウの太傅(たいふ,養育者の補佐官)となり、それから斉に住むようになった。
世の中で老子を学ぶ人は孔子の儒学を退け、儒学を学ぶ者もまた老子を退ける。『道が同じでなければお互いに話し合いができない』とは、このような状態を言うのであろうか。李耳(老子)は、人為的に作為的なことをせずに、清浄な心理の境地で人々を正した。
荘子は蒙県(もうけん,河南省)の人である。名は周。荘周は前に蒙県の漆園の吏官だった。梁の恵王・斉の宣王と同時代の人である。学問は広範で思考の及ばない所が無かったが、その要諦は老子の言葉に帰依したものである。その著書十数万字は、殆どが寓話・物語である。漁父(ぎょほ)・盗石(とうせき)・キョキョウの諸編を書いたのは、孔子の徒を誹謗して老子の学問を明らかにしようとしたからだ。畏累虚(わいるいきょ)・亢桑子(こうそうし)などの人物についての話は、荒唐無稽なことである。だが良く文章を書いて言辞を連ね、世間・人情を上手く使って、儒家・墨家を非難した。
当時かなりの学者であった者も、荘子の非難の舌鋒を逃れられなかった。荘子の言葉は非常に広大で際限がなく自己中心的だったので、王公・大人も荘子を優れた人材として採用することは出来なかった。楚の威王が荘子の賢才を聞いて、立派な礼物を持たせた使者を派遣して、宰相として迎えようとした。だが荘周は笑って使者に行った。『千金も頂けるのはとても大きな利益であり、宰相の地位は尊ぶべきものだ。しかし、あなたは郊祭(天を祀る儀式)に使う犠牲の牛を見たことはないか。あの牛は、数年間大切に養われて、綺麗な縫い取りがされた衣裳を着せられて大廟に入れられる。犠牲として殺されるのが嫌だから子豚になりたいと希望しても、どうしてそんなことができるだろうか。早く立ち去ってくれないか。私を汚さないでくれ、私は汚い溝の中で気持ちよく泳いでいたいのだ。国家を保有する諸侯のような者に縛られたくない。死ぬまで人・国には仕えず、気楽な志を持って自由に生きていきたいのだ。』と。
申不害(しんふがい)は京県(けいけん,河南省)の人である。元々は鄭(てい)の賤しい家臣だったが、法学の学術を用いて韓の昭侯に仕えようとした。昭侯は申不害を採用して宰相に据えた。申不害は国内では政教を整備して、外交では諸侯と15年間にわたって交渉し、その人生を終えるまでに韓国は治まって兵力は強くなり、韓国を侵略する国もなかった。申子の学問は黄帝・老子に基づいていて、刑名論を主にしていた。二編の著書を書き、『申子(しんし)』と呼ばれている。
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