『史記 張儀列伝 第十』の現代語訳:5

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 張儀列伝 第十』の5について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 張儀列伝 第十』のエピソードの現代語訳:5]

屈原(くつげん)が言った。「以前、大王は張儀に欺かれたことがあります。張儀がやってきたら、大王はこれを煮殺すものだと臣(私)は思っていました。今、たとえ殺すことは忍びなくても、またその邪説をお聴き入れになられるのは、良くないことですぞ。」

懐王(かいおう)は答えた。「張儀の説を聴き入れて、黔中を手放さずに済むというのは大きな利益である。後になって約束に背くのは良くないことである。」 遂に張儀の意見を聴き入れて、秦と親しくしたのである。

張儀は楚を去って、道の途中で韓に立ち寄り、韓王に説いた。「韓の地は険しくて痩せており、人民の多くは山に住み、育つ五穀は豆・麦くらいで、人民の食物といえば大抵は粗末な豆入りの飯、豆の葉の羹(あつもの)です。もし一年でも不作であれば、糟・糠(かす・ぬか)さえ民は食べられず、九百里四方にも足りない国土なので、二年を支えるだけの糧食もありません。大王の士卒を数えてみると、全員で30万人未満であり、それには雑役夫・炊事夫まで含まれています。辺境の駅亭や砦を守る者を除くと、現役の戦える士卒は20万人に過ぎません。

秦は武装兵が100万人以上、戦車は千乗、軍馬は一万頭もあり、虎のような勇猛な士、裸足で甲もつけずに敵軍に斬り込む勇士、顎を射られても戟で戦う勇士は数え切れないほど多いのです。秦の馬は駿馬で、騎兵は数が多く、前足は地を探り、後ろ足は地を蹴って疾走し、一跳びで三尋(さんひろ,二十一尺に相当)も跳ぶ騎馬も数え切れないほどです。山東(秦以外の六国)の戦士は、甲冑を身につけて戦闘しますが、秦の戦士は甲冑を捨てて裸足・素肌のままで敵に向かい、左に生首を下げ、右に捕虜を抱え込みます。

そもそも、秦の士卒と山東の士卒とでは、孟賁(もうほん,古代の勇者)と臆病者ほどの違いがあり、秦の士卒が山東の士卒に重圧を加えて抑圧するのは、烏獲(うかく,古代の怪力の力士)が赤子を押さえつけるようなものなのです。孟賁・烏獲のような士卒を戦争に駆り立て、服従しない弱国を攻めるのは、千鈞の重みを鳥の卵の上に乗せるのと同じで、弱国は絶対に不幸を避けられません。

そもそも、多くの諸侯は国土の狭さを計算に入れず、合従論者は甘言・好辞を弄して、合従の利益を飾り立てるので、それを聴き入れてしまっているのです。合従論者はみんな、『私たちの計略を採用すれば、強大な国になって天下に覇権を唱えることができます』と奮い立っています。しかし、国家の永遠の利益を考えずに、一時的な適当な説を聴き入れることは、国の君主の過ちとしてこれ以上のものはないのです。

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大王が秦に仕えなければ、秦は兵を下して宜陽(ぎよう)を拠点とし、韓の上地を遮断して、東に進んで成皋・ケイ陽(せいこう・けいよう)を取るでしょう。そうなれば、鴻台の宮・桑林の苑(こうだいのみや・そうりんのえん)は大王が所有するものではなくなるでしょう。成皋の道を塞いで、上地を遮断すれば、大王の国土は分裂してしまうでしょう。

先んじて秦に仕えれば安泰であり、秦に仕えなければ危険に陥るのです。そもそも禍いの原因を造っておきながら、報いとしての幸福を求めるのは、計略が浅はかであり秦の怨恨も深いのです。秦に逆らって楚に従うならば、滅亡しないようにすることは不可能です。

大王のために考えるながら、秦に仕えるのが一番なのです。秦が一番に欲しているのは楚を弱くするということで、楚を弱められる国としては韓に及ぶ国はないのです。韓が楚よりも強いということではなく、地勢がそのようになっているのです。今、大王が西面して秦に仕え、楚を攻めれば、秦王は必ず喜ぶでしょう。そもそも楚を攻めてその土地を取り、禍いを転じて秦を喜ばせることは、利便を生む計略としてこれ以上のものはないのです。」

韓王は張儀の計略をお聴き入れになった。張儀は秦に帰って報告した。秦の恵王は張儀を五つの邑に封じて、武信君(ぶしんくん)と呼んだ。

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秦の恵王は張儀に命じて、東に行って斉のビン王に策を説かせた。「天下の強国としては斉以上の国はありません。斉の大臣や王族の老臣は富裕で安楽なものです。しかし、大王のために計略を考える者は、みんな一時的な間に合わせの策を論じていて、百世の長期的利益を顧みることがありません。合従論者で大王に説く者は、必ず『斉は味方として西に強い趙があり、南に韓・魏があり、背後には海があります。国土は広大で人民は多く、士卒は勇猛で、たとえ百の秦があっても、斉をどうにかすることはできないでしょう。』と申すでしょう。

大王はその説を賢明だと思われて、その実際を考えておられません。合従論者は徒党を組んでぐるになり、合従論のすべてを良いものとしてしまいます。臣(私)の聞くところによると、『斉と魯が三戦して魯が三勝したが、結果、魯国は危機に瀕して滅亡の危険まで生じた』ということですが、魯は戦勝の名はあっても滅亡の実があったわけです。どうしてそうなったのでしょうか。斉が大国で、魯が小国だったからです。秦と趙との関係も、その斉と魯との関係のようなものなのです。

秦・趙は章水(しょうすい)のほとりで戦いましたが、二戦して趙がその二戦を秦に勝ちました。また番吾(はご)の城下でも、二回戦いましたがこれも趙が秦に二回とも勝ちました。この四戦で、趙の戦死者は数十万人にも上り、都の邯鄲(かんたん)はかろうじて守られました。趙は戦勝の名はありといえども、国家としては既に破れてしまっていたのです。どうしてそうなったのでしょうか。秦が強国で趙が弱国だったからです。

今、秦・楚は王女をお互いに嫁入りさせ、婦人を娶って、兄弟の国になっています。韓は宜陽(ぎよう)を献上して、魏は河外(かがい)を差し出し、趙はベン池(べんち)に朝貢し、河間(かかん)を割譲して仕えています。もし大王が秦にお仕えにならなければ、秦は韓・魏を駆り立てて斉の南を攻め、趙の全軍を集めて清河を渡り、博関(はくかん,山東省)に向かうでしょう。そうなれば、臨シ・即墨(りんし・そくぼく)は大王の所有する地ではなくなります。斉が攻められてからでは、秦に仕えたいと思っても不可能になってしまいます。ですからどうぞ、大王は熟慮されてください。」

斉王は言った。「斉は僻地の遠い小さな国であり、私は東海のほとりで隠居しているので、いまだ国家の長期的な利益というものを聴いたことがありませんでした。」 そして、張儀の説をお聴き入れになった。

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