『史記 平原君・虞卿列伝 第十六』の現代語訳:3

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 平原君・虞卿列伝 第十六』の3について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 平原君・虞卿列伝 第十六』のエピソードの現代語訳:3]

王はそのことを虞卿に告げた。虞卿は答えて言った。「趙赤の言い分は『講和しなければ、秦は来年再び王を攻めてくるだろう。そうなると、王は更に内部の領地を割譲して講和せざるを得なくなる』ということですが、今講和したとしても、赤は秦が再び攻めてくることはないとまでは保証できないのです。今、たとえ六県を割譲しても、何の利益があるというのでしょうか。来年、秦がまた攻めてくれば、王はまた秦の力では取ることのできない土地を割譲して講和なさるでしょう。これは自滅の道なのです。だから、講和しないに越したことはないのです。秦はたとえよく攻めたとしても、六県を取ることまではできないでしょう。趙はたとえよく守れなくても、六県を失うことまではないでしょう。

秦が戦いに倦んで帰れば、その兵は疲れきっているはずです。そこで、我が国は六県を天下の諸侯に与えて味方につけ、疲弊した秦を攻めれば、天下の諸侯に対して六県を失いますが、その代償を秦から取ることができ、我が国にはなお利益があります。いながらにして土地を割譲し、自らを弱くして秦を強くするのと、どちらが得でしょうか。今、趙赤は『秦が韓・魏と親善して趙を攻めるのは、そうすれば必ず韓・魏が趙を救援せず、王の軍が孤立すると思うからだ。また王の秦に対する仕え方が韓・魏に及ばないからである』と申していますが、この考え方だと、王に毎年、六県を割譲させて秦に仕えるということになってしまいます。これではいながらにして、趙の城邑は尽き果ててしまうでしょう。

来年、また秦が土地の割譲を求めてきたら、王は土地をお与えになりますか。お与えにならなければ、これまで土地を割譲してきた効果を捨てて、秦から攻められる禍いを挑発することになるでしょう。お与えになれば、最後には与えるべき土地が無くなってしまうでしょう。古語に『強者はよく攻めて、弱者はよく守ることができない』とあります。今いながらにして秦の要求をお聞き入れになれば、秦は軍兵を疲弊させずに多くの土地を得るでしょう。これは秦を強くして、趙を弱くすることです。ますます強くなる秦が、いよいよ弱くなる趙の土地を割譲させるのですから、秦の計略は元より止まることがないでしょう。かつ王の土地は有限ですが、秦の要求は無限です。有限の地をもって無限の要求に応じていれば、その勢いから趙の消滅は必定となってしまいます。」

趙王は、どうすべきか決定できずにいた。そこへ秦から楼緩(ろうかん)がやって来た。趙王は楼緩と相談して言った。「あなたは秦に土地を与えるのと与えないのと、どちらが良いと思いますか。」 楼緩は辞退して言った。「これは臣(私)の知り得るところではありません。」 王は言った。「そうであっても、試しにあなたの意見を語ってみてほしいのだ。」

楼緩は答えて言った。「王もまたあの公甫文伯(こうほぶんはく,魯の季康子の従父兄弟)の母の話をお聞きになりましたか。公甫文伯は魯に仕えていましたが、彼が病死すると、その死を悲しんで閨房(けいぼう)の中で自殺してしまった女が二人いました。文伯の母はこれを聞いても、哭礼(こくれい,死者を悼んで声を上げて泣く礼)をしませんでした。文伯の保姆(ほぼ・育て親)が『子が死んだのに哭礼を行わない人がいるものでしょうか』と申し上げると、母は『孔子は賢人でしたが、魯から放逐されました。その時に、この人は孔子に随行しなかったのです。今、息子が死にますと、息子のために自殺した婦人が二人いました。このような者は、有徳者に対しては薄情で、婦人に対しては多情だというべきです(だから哭礼をすべき価値が感じられないのです)』と言いました。

この言葉が母の口から出ると、賢母とされるが、妻の口から出ると、嫉妬深い妻と思われることを免れません。言葉が同じであっても、それを口にする人が異なると、聞き手の心は変わるのです。今、臣(私)は秦から来たばかりなので、秦の事情がよく分かります。『与えるな』というのは、良計ではありません。しかし、『与えたほうがいい』といえば、恐らく王は臣が秦のためにそういうのだとお思いになるでしょう。だから敢えてお答えをしなかったのです。臣が大王のために策略を計るとすれば、土地をお与えになるに越したことはありません。」

王は「分かった」と言った。

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虞卿はこれを聞いて、王宮に入って王に謁見して言った。「楼緩の意見はただ飾り立てただけのものです。王は慎重に判断されて、土地を秦にお与えにならないようにしてください。」 楼緩はこれを聞いて、赴いて王に謁見した。王はまた、虞卿の言葉を楼緩に告げた。楼緩は答えて言った。「そうではありません。虞卿は一を知って二を知りません。そもそも、秦・趙が戦争をして、天下の諸侯がみんな悦んでいるのはなぜでしょうか。諸侯は『私は強い方に加担して、弱い方に乗じてやろう』と申しています。今、趙軍は秦軍のために苦しめられていて、天下の諸侯からの戦勝を祝賀する使者は、必ず秦にいるでしょう。だから、速やかに土地を割譲して講和を結び、諸侯を惑わして、秦の心を慰めるに越したことはないのです。そうしないと、天下の諸侯は秦の激しい怒りを利用して、趙の疲弊につけ込み、瓜を破るように趙を分割するでしょう。趙は将に亡びようとしているのです。どうして秦をはかりごとにかけることなどできるでしょうか。このために、虞卿は一を知って二を知らないと申し上げているのです。どうか王はこれらのことを考えて決断して下さい。またこれ以上のはかりごとはしないで下さい。」

虞卿はこれを聞いて、赴いて王に謁見して言った。「危険な事態です、楼緩が秦のために動いているのです。彼の言う通りにすれば、天下の諸侯にますます疑われるので、どうして秦の心を慰めることなどできるでしょうか。ただ天下に趙の弱さを示すだけになります。かつ、臣が『地を秦にお与えにならないように』と申し上げるのは、ただ与えるなという意味ではないのです。秦が王に六県を要求するのであれば、王は思い切ってその六県を賄賂として斉にお与え下さい。斉は秦の深刻な讐(あだ)だからです。

王の六県を手に入れれば、王と力を併せて西の秦を攻撃するでしょう。だから、斉が王のおっしゃることを聞くには、言葉が終わるまでも待たないでしょう。こうすると、王は六県を斉に与えて失うわけですが、その代償を秦から取ることになります。斉・趙の秦に対する深刻な讐(あだ)も報われるのです。そして天下に趙の有能さを示すこともできます。王がこれを宣言なされば、斉・趙の軍兵がまだ秦の国境を窺わないうちに、秦の重厚な賄賂が趙に着き、逆に秦から王に講和を求めてくることになるでしょう。秦のほうから講和を求めてくるなら、韓・魏はこれを聞いて、王を必ず重んじるようになるでしょう。王を重んじれば、必ず重宝を差し出して、王に先んじて和親を申し出てくるでしょう。すなわち、王は一斉に斉・韓・魏mの三国と和親を結んで、秦と立場を逆にすることができるのです。」

趙王は言った。「よろしい。」 虞卿に命じて東の斉王に謁見させ、共に秦を攻撃することを相談させた。すると、虞卿がまだ斉から帰ってこないうちに、秦の講和使節が既に趙にやって来た。楼緩はこれを聞いて、逃げ去った。趙はそこで虞卿の功績を評価して一城邑に封じた。

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暫く経ってから、魏が趙に合従したいと請願してきた。趙の孝成王は虞卿を召し出して相談しようとした。虞卿は宮中に向かう途中で、平原君の元へ立ち寄った。平原君は言った。「どうか魏との合従策が正しいと王に論じてほしい。」 虞卿が宮中に入って王に謁見すると王は言った。「魏が合従したいと請うてきた。」 虞卿は答えて言った。「魏は間違っています。」 王は言った。「寡人(私)は元よりまだ許してはいない。」 答えて言った。「王も間違っておられます。」 王は言った。「魏が合従を請うてきたことを、卿は『魏が間違っている』という。寡人はまだ許していないのに、また『寡人も間違っている』という。それなら、合従をしてはいけないのか。」

虞卿は答えて言った。「臣(私)は『小国と大国とが共に事に従う時には、利益があれば大国がその福利を受け、失敗があれば小国がその禍いを受ける』と聞いております。今、魏は小国であるのに禍いを請い、王は大国であるのに福利を辞退しておられます。だから、王は間違っていて、魏もまた間違っていると申し上げたのです。密かに考えてみると、合従することの利便性はあるのです。」 王は言った。「よろしい。」 そして、魏と合従したのである。

虞卿は、魏の宰相の魏斉(ぎせい)によって、万戸侯の地位と卿の印綬を投げ出して、魏斉と共に人目を忍んで旅立ち、遂に趙を去って大梁(だいりょう、魏の国都)で困窮した。魏斉の死後、虞卿は志を得なかったので、書物を著してその意を述べた。その書は上は『春秋』から採り、下は近世を観察し、節義、称号、揣摩(しま)、政謀など八篇からなり、国家の得失を批判している。世にこれを伝えて、『虞氏春秋(ぐししゅんじゅう)』という。

太史公曰く、平原君は乱世における風流な佳公子であった。しかし、世の大局を見るには至らなかった。俗諺(ぞくげん)に「利は智を昏く(くらく)する」とある。平原君は馮亭(ふうてい)の邪説を聞き入れて貪欲な心を起こし、長平に陣取った四十余万の趙軍を災厄に落としたので、邯鄲は危うく滅亡するところであった。

虞卿は事情を考えて、趙のために画策したが、それは何と巧妙であったことか。その後、魏斉の不幸を見るに忍びず、遂に大梁で困窮した。凡夫でさえもその不可なることを知り得るのに、まして賢人である虞卿がそれに気づかないはずがない。しかし、虞卿が困窮・憂愁をしなかったら、書物を著して自ら後世に現れることは出来なかっただろう。

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