『史記 穣侯列伝 第十二』の現代語訳:2

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 穣侯列伝 第十二』の2について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 穣侯列伝 第十二』のエピソードの現代語訳:2]

『周書』には『天命は常ならず』とありますが、これは幸せが何度も訪れないということです。そもそも、暴鳶(ぼうえん)に戦勝して八県を割かせたのは、兵が精鋭であったからではなく、また計略が巧みだったからでもありません。天からの幸いが多かっただけなのです。今また、芒卯(ぼうぼう)を敗走させ、北宅に侵入し、大梁を攻めていますが、これは天からの幸いが常に自分にあると思っているからです。智者はそのようには思いません。

臣(私)は、『魏が百県の選抜隊以上の兵力をすべて投入して大梁を守る』と聞いております。臣が思うに、その兵力は三十万を下らないでしょう。三十万の勢力で七仞の城(しちじんのしろ,城壁の高い堅固な城)を守るのですから、殷の湯王、周の武王が生き返ったとしても、簡単に攻め落とせるものではありません。そもそも軽率に、楚・趙の兵を背後に残して、七仞の城に攻め寄せ、三十万の大勢力と戦い、必ずこれを攻略したいと望んでも、臣(私)の考えでは天地開闢(てんちかいびゃく)の昔から今に至るまで、いまだかつてそんな例はありません。もし攻略できなければ、秦軍は必ず疲弊し、秦の領土の陶が必ず亡ぼされるでしょう。そうなると、あなたの前の功績はきっと消えてしまうでしょう。

今、魏はどうすべきか疑って迷っています。だから、多少の土地を割いて事態を収めることはできるでしょう。どうか楚・趙の兵が魏に到着しないうちに、早く多少の地を魏に割かせて、魏との関係を改善してください。魏は疑い迷っているのですから、多少の土地を割譲することで講和できるなら、必ずそれを望みます。あなたも欲する土地を得ることができます。楚・趙は魏が自分たちに先んじて魏が秦と講和したことを怒って、必ず争って秦に仕え、合従(対秦の軍事同盟)は解散することになるでしょう。あなたはその後でやりたいことを選べば良いのです。さらに、あなたが土地を得るためには、必ずしも兵力を必要としないのです。もし、元晋の地を割いて取ろうとするならば、秦の兵が攻めなくても、魏は必ず絳・安邑(こう・あんゆう,山西省)を差し出し、また陶への南北の両方の道を開いてくれるでしょう。

こうして元宋の地を取れば、衛はきっと単父(ぜんぽ,山東省)を差し出すでしょう。秦兵は完全なままであり、あなたはそれを制しているのですから、何でも求めて得られないものはなく、どんなことでもやろうとして成し遂げられないことはありません。どうか、熟慮されて魏を包囲するような危険な行為をなさらないようにお願いいたします。」

穣侯は言った。「よろしい。」 魏の大梁の包囲をやめたのである。

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翌年、魏が秦に背いて、斉と合従親交した。秦は穣侯に命じて魏を伐たせた。首を斬ること四万、魏の将軍・暴鳶(ぼうえん)を敗走させ、魏の三県を入手した。穣侯は所領を加増された。

その翌年、穣侯は白起(はくき)・客卿の胡陽(こよう)と一緒に、また趙・韓・魏を攻めて、芒卯(ぼうぼう)を華陽の城下で破り、首を斬ること十万、魏の巻(けん,河南省)、蔡陽(さいよう,湖北省)、長社(ちょうしゃ,河南省)、趙の 観津(かんしん,河北省)を取った。そして、趙に観津を返して、援軍を与えて斉を伐とうとした。斉の襄王(じょうおう)を恐れて、蘇代(そだい)に命じ、密かに秦の穣侯に書簡を送らせた。その書簡にはこう書いてあった。

「臣(私)は、道をゆく人々が『秦が今まさに趙に武装兵四万を与えて、斉を伐とうとしている』と話しているのを聞いています。臣はひそかに我が斉王に『秦王は賢明で謀略に熟達しており、穣侯は智者で物事に習熟しているので、趙に四万の武装兵を与えて斉を伐つことなどありえません。』と言いました。これはどういう根拠から言ったのでしょうか。そもそも三晋(韓・魏・趙)が同盟を結ぶことは、秦にとっては深い憂慮であります。三晋は百回も秦に背いて、百回も秦を欺きましたが、それを不義・不信とは考えていません。今、斉を破って趙を肥やすことは、趙が秦の深刻な仇である以上、秦には不利なことになります。これが(秦が斉を攻めない)理由の一つです。

秦の計略家は必ず『三晋と楚が斉を伐てば、斉は敗れるだろうが、三晋と斉も疲弊するだろう。そうなれば、秦は三晋と楚に勝つことができる。』と申すでしょう。そもそも、斉は疲弊している国です。天下をもって斉を攻めるのは、千鈞の重さのある大きな弩(いしゆみ)で潰れかかっている腫物(はれもの)を射るようなもので、斉は簡単に亡んで、どうしてそれで三晋・楚を疲弊させることなどできるでしょうか。これが第二の理由です。晋が多少の出兵をしても、三晋・楚は信用しません。しかし、大勢力で出兵すれば、三晋・楚は秦に制せられて、秦が斉を伐つことになるでしょう。

斉は恐れて秦には従わずに、必ず三晋・楚に走るでしょう。これが第三の理由です。秦が斉の地を割いて取って、三晋・楚に与えてやれば、三晋・楚は兵を出してその地を守りますから、秦は返って敵を受けることになります。これが第四の理由です。秦が三秦・楚を助けて斉を伐つことは、三晋・楚が秦を利用して斉の地を掠め取り、斉を利用して秦の地を掠めることになります。これでは三晋・楚が智者となり、秦・斉が愚者となりますので、秦はそうしないでしょう。これが第五の理由です。だから、秦は安邑(あんゆう)を手に入れてそれを統治すれば、何の憂いもないのです。秦が安邑を保有すれば、韓も上党を維持できなくなります。天下の胃腸ともいうべき上党を取るのと、出兵してから帰還できないのではないかと恐れるのと、秦にとってどちらに利益があるでしょうか。だから、臣は『秦王は賢明で計略に熟達しており、穣侯は智者で物事に習熟しているから、趙に四万の武装兵を与えて斉を伐つようなことは絶対にありません。』と申し上げたのです。」

この書簡を読んで穣侯は斉に行くのをやめ、兵を率いて秦に帰った。

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昭王の三十六年、相国(しょうこく)の穣侯は、客卿の竈(そう)と相談して、斉を伐って剛・寿(ごう・じゅ,山東省)を取り、自らの陶の所領を拡大したいと欲した。魏人の范雎(はんしょ)は張禄先生と自称していたが、穣侯が斉を伐つのに、三晋を越えて斉を攻める無謀を謗ったが、この時に秦の昭王に自説を開示した。昭王は、范雎を登用した。范雎は宣太后の専制、穣侯が諸侯の間で権力を独占していること、涇陽君(けいようくん)・高陵君(こうりょうくん)の徒が奢侈で王室よりも富裕なことについて指摘した。昭王は悟って、穣侯を相国から罷免して、涇陽君の徒にみんな函谷関を出て封邑(ほうゆう)に行くように命令した。穣侯が函谷関を出る時には、その輜重車は千乗以上もあった。穣侯は陶で死んで、そこに葬られた。秦は陶を取り上げてそれを郡にした。

太史公曰く――穰侯は昭王の親しい舅(おじ)である。秦が東に領土を拡大して、諸侯の勢力を弱め、かつては天下に向かって帝号を称し、天下の諸侯が皆、西に向かって頭を下げたのは、穣侯の功績によるものである。しかし、穣侯はその高貴と富裕が溢れ出てしまったことで、一人の男(范雎)が(家臣が王権を凌いでいて越権・専横であると)自説を開陳しただけで、身は挫かれ権勢は奪われて、憂いの中で死ぬことになった。王族の一員でさえこのような最期である、まして旅人(外国人)の臣であれば(一時の権勢家が悲惨な最期を迎えやすいというのは)なおさらであろう。

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