中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。
『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 孟子・荀卿列伝 第十四』の2について現代語訳を紹介する。
参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)
[『史記 孟子・荀卿列伝 第十四』のエピソードの現代語訳:2]
鄒衍はじめ、斉の稷下先生(しょくかせんせい:斉の威王・宣王の時代に斉の国都臨シの城門である稷門に集まった学者)、例えば、淳于コン(じゅんうこん)、慎到(しんとう)、環淵(かんえん)、接子(しょうし)、田駢(でんべい)、スウセキの徒のごときまで、それぞれの書物を著し、治乱を論じて、時の君主に士官を求めた。その数は多くてすべてに言及することはできない。
淳于コンは斉の人である。博聞強記で、その学問は主人とする所(学派への所属)を持たなかった。その君主の諌め方は、晏嬰の人柄を慕って手本としていたが、相手の意に従って顔色を伺うことに務めるものであった。ある賓客が、コンを梁(魏)の恵王に謁見させた。恵王は左右の臣を遠ざけて、独りだけで再び会ったが、コnはついに一言も話さなかった。恵王はこれを怪しんで、賓客を責めて言った。
「あなたは淳于先生を称揚して、管仲・晏嬰も及ばない人物だと言った。しかし、寡人(私)が謁見しても、何も得る所のものがない。どうして、先生は寡人を語るに足りない相手だと思ったのだろうか。それは何故なのか。」
賓客がコンにそのことを話すと、コンは言った。「当然です。私が前に王に拝謁した時には、王の意志は馬で駆け巡ることにありました。後でまた王に謁見した時には、王の意志は音楽を聴くことにありました。だから私は黙っていたのです。」 賓客は詳しく王に伝えていった。王は大いに驚いて言った。「あぁ、淳于先生は本当に聖人であるな。前に淳于先生がいらっしゃった時、ある人が駿馬を献上してくれて、寡人はまだそれを見ていなかったのだ。ちょうどその時に先生が着いたのである。後で先生が来た時には、ある人が歌手を献上してくれていたが、まだその歌を試しに聴いていなかった。またそこにちょうど先生がいらっしゃったのだ。寡人は人を遠ざけて先生の話を聴く形を整えはしたが、その心は馬と歌手のほうにあった。その通りである。」
その後、淳于コンは恵王に謁見したが,いったん語りだすと三日三夜連続して話しても倦まなかった。恵王は大臣・宰相の位をもってコンを待遇しようとしたが、コンはそれを辞退して去った。そこで安楽に乗れる四頭立ての馬車、璧(たま)を添えた絹の巻物、黄金百鎰(ひゃくいつ)を送った。淳于コンは生涯にわたって士官しなかった。
慎到(しんとう)は趙の人である。田駢(でんぺい)・接子(しょうし)は斉の人である。環淵(かんえん)は楚の人である。みんな、黄帝・老子の術、道徳の術(道家の学問)を学んでおり、そこから自説を立ててそれぞれの真意を述べた。それ故、慎到は十二の論文を著し,環淵は上・下篇を著し、田駢・接子もみんな論ずる所があった。スウセキは斉の三鄒子(さんすうし)の流れを汲む者で、これも鄒衍の学説から大いに取り入れて文章を書き記した。
斉王はこれらの学問を嘉し、淳于コン以下をみんな列大夫(れつたいふ)と呼び、彼らのための邸宅を設け、高い門のある広大な邸に住まわせてこれを礼遇した。天下の諸侯が集めた賓客を観察すると、斉はよく天下の賢士を集めたと言えるだろう。
荀卿(じゅんけい)は趙の人である。五十歳になって、初めて斉に遊学した。当時、鄒衍たちがいてその学説は誇大ではあるが、多弁ではあった。スウセキは文章は立派だが実用性がなかった。淳于コンは、長く一緒にいれば善言を聴くことができた。だから斉の人々は、「天を談ずる壮大な鄒衍、龍を彫刻するような美分を書くスウセキ、甑の油壺を炙れば油が流れて尽きないように知恵が尽きない淳于コン」だと言って褒め称えた。
田駢(でんべん)たちはみんな死んでしまい、斉の襄王(じょうおう)の時代には、荀卿(じゅんけい)が学者の最長老になった。斉ではなお列大夫の学者の欠員を補っていて、荀卿は三度、祭酒(さいしゅ・列大夫の長)になった。斉の人の中に荀卿を讒言するものがいたので、荀卿は楚に赴いた。楚の春申君(しゅんしんくん)は、荀卿を蘭陵(らんりょう,楚の邑・山東省)の令(長官)に任じた。
春申君が死ぬと荀卿は解任されたが、その縁でそのまま蘭陵に住んだ。李斯(りし)はかつて荀卿の弟子となったが、その後に秦の宰相となった。荀卿の当時は、混乱した政情の世の中であり、亡国や乱君が相次いで現れ、聖人の大道を遂行せず、巫祝(ふしゅく)に惑わされ、吉凶禍福の前兆を信じ、つまらぬ儒者が小事に拘泥し、荘周(荘子)らはまた放談して世の風俗を乱していた。そこで荀卿は、儒家・墨家・道家の実情と興廃を推論して、それを数万字の著書にまとめてから亡くなった。蘭陵に葬られたのである。
趙にはまた公孫竜(こうそんりゅう)がいて、堅白同異(けんぱくどうい)の詭弁を語って、劇子(げきし)の言説があった。魏には李カイがいて、地力を活用して生産性を高める言説があった。楚には尸子(しし)・長盧(ちょうろ)がいて、阿(山東省)には吁子(うし)がいた。孟子より吁子に至るまで、世にその著書が多くあるので、ここではその伝を論じないこととする。
思うに、墨家の墨テキ(ぼくてき,墨子)は宋の大夫であり、城を守り防御することが上手く、費用を節約できる説を論じた。あるいは孔子と同時代の人物であるといい、あるいは孔子よりも後代の人物だという。
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