[書き下し文]
斉物論篇 第二(続き)
既に我と若(なんじ)とをして弁ぜしむるに、若の我に勝ち、我の若に勝たざれば、若は果たして是にして我は果たして非なるか。我の若に勝ち、若の我に勝たざれば、我は果たして是にして、而(なんじ)は果たして非なるか。其れ或は是にして其れ或は非なるか。其れ倶に是にして其れ倶に非なるか。
我と若と相知る能わざれば、則ち人は固より(もとより)其の暗闇に受けたり。吾れ誰にか之(これ)を正さしめん。若に同じき者をして之を正さしめんか。既に若と同じければ、悪ぞ(なんぞ)能く之を正さん。我に同じき者をして之を正さしめんか。既に我と同じければ、悪んぞ能く之を正さん。我と若とに異なる者をして之を正さしめんか。既に我と若と異なれば、悪ぞ能く之を正さん。
我と若とに同じき者をして之を正さしめんか。既に我と若とに同じければ、悪ぞ能く之を正さん。然らば則ち我と若と人と、倶に相知る能わざるなり。而るに彼を待たんや。
[現代語訳]
長梧子(ちょうごし)はいう。今、あなたと私がある論題について議論したとすると、もしあなたが私に勝ち、私があなたに負けたとすると、あなたが正しくて私が間違っているということになるだろうか。また逆に、もし私があなたに勝ち、あなたが私に負けたとすると、私が正しくてあなたが間違っているということになるのだろうか。
(議論の勝敗は必ずしも是非と一致しないのは明らかだが)そうだとすると、あなたと私のどちらか一方だけが正しくて、どちらか一方は間違っているということになるのだろうか。あるいは二人ともに正しいか、二人ともに間違っているということになるのだろうか。
私とあなたが共に議論の是非について知ることができないとすれば、第三者の判定が必要になるが、それは何も知らない真っ暗闇の中にいる人に是非を任せるようなものである。私はどうして是非を正すことができるだろうか。あなたと同じ意見の人を使って判断させるのか。あなたと同じ意見であれば、あなたの意見が正しいというだけであるから、どうして是非を判断できるだろうか。私と同じ意見の人に判断させるのか。しかし、私と同じ意見であれば私が正しいというだけで、どうして是非を判断できるのか。
また私とあなたとは違う意見の人にも正しい判断をすることはできない。私とあなたと同じ意見の人に判断させるのか。それも私とあなたと共に意見が同じであれば、ただ同意するだけで是非の判断ができるだろうか。そうであるから、私もあなたも第三者も、一義的な是非(正しさ)を知ることなどできない。なのに、第三者を待つのか。
[書き下し文]
斉物論篇 第二(つづき)
何をか之(これ)を和するに、天からひとしき理(ことわり)を以てすると謂う。曰く、是と不是とあり、然と不然とあり。是もし果たして是ならば、則ち是の不是と異なること、亦(また)弁ずるまでも無からん。然もし果たして然ならば、則ち然の不然に異なること、亦(また)弁ずるまでも無からん。化声の相待つことは、其の相待たざるに同じ。
之を和するに、天からひとしき理を以てして、之を因(したが)わしむるに曼衍(まんえん)を以てするは、年を窮める所以なり。年を忘れ義を忘れて、かぎり無く振るう。故に諸(これ)をかぎり無きに寓(いこ)わしむるなり」と。
罔両(もうりょう)、影に問うて曰く、「先に子(きみ)行き、今は子止まれり。先には子坐り、今は子起てり(たてり)。何ぞ其れ特まる操(みさお)無きや」と。
影の曰く、「吾は待む(たのむ)ものありて然(しか)する者なるか。吾が待む所、又待むもの有りて然するものなるか。吾は蛇のうろこ、蜩(ひぐらし)の翼を待むか。悪んぞ然する所以を識らん(しらん)。悪ぞ然せざる所以を識らん」と。
[現代語訳]
議論の是非の対立を調整するには、天ゲイ(天の唯一絶対の原理)で調整するとされている。是(肯定)と不是(否定)があり、然(そうである)と不然(そうではない)がある。是が本当に是であれば、是が不是とは異なっていて両立しないことは、あえて議論するまでもない。然が本当に然であれば、然が不然とは異なっていて両立しないことは、これも議論するまでもない。化声(是・不是のような終わりのない循環論法)が存在すると主張しても、存在しないのと同じなのである。
議論の是非の対立を調和させるには天理(天の唯一絶対の法則)で調和させ、対立を解消するには曼衍(物事の是非分別が発生する前の混沌状態)で解消するというのは、寿命をまっとうする所以なのである。虚構である年齢を忘れて正しき道を忘れて、限界・区別なく振る舞う。これによって、相対主義の限界のない絶対的な世界にくつろいで住むことができる」と。
罔両(影の周囲にある淡い影)が、影に尋ねて言う。「先ほどまで歩いていたのに、今は立ち止まっている。さっきまで坐っていたのに、今は立ち上がっている。どうしてそんなに定まった主体性がないのだ」と。
影がいう、「私が依拠する絶対者があって存在するものなのか。私は何かに頼っている、または依拠する絶対者があって初めて存在できるのだろうか。私は蛇のうろこのようなもの、蜩の翼のようなものを必要としているのか。しかし、私は何かに依拠していることを知らない。また何かに依拠していないことも知らないのだ」と。
[解説]
「議論の是非」を誰かの判断によって一義的に決定することはできないことを示した章になります。ある意見が正しいかどうかは、議論の当事者でも第三者でも決定することはできず、ただ「天理(天の絶対的な一元の原理)」によって公理として決定されるだけということを説明しています。「荘子」らしい「相対主義・不可知論のロジック」が展開されていて、「影の対話」によって「哲学的な存在論(独立の実在なのか何かに依拠する仮象なのか)」についても考えているのは興味深いと思います。
荘子(生没年不詳,一説に紀元前369年~紀元前286年)は、名前を荘周(そうしゅう)といい、字(あざな)は子休(しきゅう)であったとされる。荘子は古代中国の戦国時代に活躍した『無為自然・一切斉同』を重んじる超俗的な思想家であり、老子と共に『老荘思想』と呼ばれる一派の原型となる思想を形成した。孔子の説いた『儒教』は、聖人君子の徳治主義を理想とした世俗的な政治思想の側面を持つが、荘子の『老荘思想』は、何ものにも束縛されない絶対的な自由を求める思想である。
『荘子』は世俗的な政治・名誉から遠ざかって隠遁・諧謔するような傾向が濃厚であり、荘子は絶対的に自由無碍な境地に到達した人を『神人(しんじん)・至人(しじん)』と呼んだ。荘子は『権力・財力・名誉』などを求めて、自己の本質を見失ってまで奔走・執着する世俗の人間を、超越的視座から諧謔・哄笑する脱俗の思想家である。荘子が唱えた『無為自然・自由・道』の思想は、その後の『道教・道家』の生成発展にも大きな影響を与え、老子・荘子は道教の始祖とも呼ばれている。荘子は『内篇七篇・外篇十五篇・雑篇十一篇』の合計三十三篇の著述を残したとされる。
参考文献
金谷治『荘子 全4冊』(岩波文庫),福永光司・興膳宏『荘子 内篇』(ちくま学芸文庫),森三樹三郎『荘子』(中公文庫・中公クラシックス)
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