『荘子(内篇)・斉物論篇』の7

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荘子(生没年不詳,一説に紀元前369年~紀元前286年)は、名前を荘周(そうしゅう)といい、字(あざな)は子休(しきゅう)であったとされる。荘子は古代中国の戦国時代に活躍した『無為自然・一切斉同』を重んじる超俗的な思想家であり、老子と共に『老荘思想』と呼ばれる一派の原型となる思想を形成した。孔子の説いた『儒教』は、聖人君子の徳治主義を理想とした世俗的な政治思想の側面を持つが、荘子の『老荘思想』は、何ものにも束縛されない絶対的な自由を求める思想である。

『荘子』は世俗的な政治・名誉から遠ざかって隠遁・諧謔するような傾向が濃厚であり、荘子は絶対的に自由無碍な境地に到達した人を『神人(しんじん)・至人(しじん)』と呼んだ。荘子は『権力・財力・名誉』などを求めて、自己の本質を見失ってまで奔走・執着する世俗の人間を、超越的視座から諧謔・哄笑する脱俗の思想家である。荘子が唱えた『無為自然・自由・道』の思想は、その後の『道教・道家』の生成発展にも大きな影響を与え、老子・荘子は道教の始祖とも呼ばれている。荘子は『内篇七篇・外篇十五篇・雑篇十一篇』の合計三十三篇の著述を残したとされる。

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金谷治『荘子 全4冊』(岩波文庫),福永光司・興膳宏『荘子 内篇』(ちくま学芸文庫),森三樹三郎『荘子』(中公文庫・中公クラシックス)

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[書き下し文]

斉物論篇 第二(続き)

神明(しんめい・こころ)を労して一つにせむと為して、其の同じきことを知らざるなり。之を朝三(ちょうさん)と謂う。何をか朝三と謂う。曰く、ある狙公(さるつかい)のさるに茅(とちのみ)を賦(ふ)して、朝は三つ、暮には四つにせむと曰ひし(いいし)に、衆(あまた)の狙(さる)は皆怒れり。然らば則ち、朝は四つ、暮には三つにせむと曰ひしに、衆の狙は皆悦べり。名の実は未だそこなわれざるに、喜怒は用を為せしなり。亦是(ぜ)に因るのみ。是の以(このゆえ)に聖人は、之を和するに是非を以てして、天から鈞しき(ひとしき)ところに休む。是を之(これをこれ)両つ(ふたつ)ながら行わるると謂うなり。

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[現代語訳]

世俗の人間は心を苦しめて、是非の対立を一つにしようとして、その対立している二つのものが本当は同じであるということを知らない。これを朝三(ちょうさん)というのだ。何を朝三と言うのだろうか。ある所に、狙公(そこう)という猿使いの親方がいて猿に橡の実を与えた。朝に三つ、夕方に四つずつやろうと言うと、大勢の猿がみんな怒った。それならば、朝は四つ、夕方に三つずつやろうと言うと、大勢の猿はみんな喜んだのである。『朝三暮四(ちょうさんぼし)』も『朝四暮三』も名前(言葉)は変わっても実際の本質(合計7つの橡の実)は何も変わっていないのだが、猿たちは喜怒の感情を無意味に用いている。ただ(すべてが同じという万物斉同の)是に拠るだけで良いのに。だから聖人は、こういった問題を調和するのに是非の統一をもって対峙し、天の絶対的一の調和の世界で安住するのだ。これを、矛盾するものが二つとも同時に成り立つ『両行(りょうこう)』というのである。

[解説]

有名な『朝三暮四』の故事成語が紹介されているエピソードである。表面的な言葉を変えることで、物事の本質を誤魔化すこと、虚偽や甘言を駆使して相手を振り回してバカにすることが『朝三暮四』であるが、人間もまた『橡の実(とちのみ)7つ』を巡って表面的な言葉に騙されている猿たちと変わらない感情的反応を繰り返す存在である。矛盾・対立している二つのものに対して、どちらが正しいかを争う是非分別には本質的な意味がないとする荘子は、矛盾・対立を統合して全てが同じように存在するという『両行の道』を勧めているのである。

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[書き下し文]

斉物論篇 第二(つづき)

古(いにしえ)の人は、其の知に至る所有り。悪くにか(いずくにか)至る。以て未だ始めより物有らずと為す者有り。至れり尽くせり。以て加うべからず。其の次は以て物有りと為す、しかも未だ始めより封ずること有らざるなり。其の次は以て封ずる有りと為す、しかも未だ始めより是非すること有らざるなり。是非の彰わるるや(あらわるるや)、道のそこなわるる所以なり。道のそこなわるる所以は愛の成る所以なり。果たして且も(そも)成るとそこなわるるとのわかち有りや、果たして且も成るとそこなわるるとのわかち無きや。

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[現代語訳]

昔の人(絶対者)は、最上の認識に至る知を持っていた。その知はどこに至るのか。その知は初めは物(道)が存在しないという絶対的一の境地を示す。至れり尽くせりの完全な認識である。加える所が全くないのである。その次には、物(道)があるという知になり、しかしまだその物(道)には境界的な秩序がないのである。その次には、境界的な秩序があるという知になり、しかしまだその物(道)には是非善悪の分別がないのである。是非善悪の分別が現れるということが、道が損なわれてしまう理由なのだ。道が損なわれてしまうということが、人間的な愛執(愛憎好悪)が生じる理由でもある。果たしてそもそも成(成る)と毀(損なわれる)との区別はあるのだろうか、果たしてそもそも成と毀との区別はないのだろうか。

[解説]

荘子の想定する最高至上の知(認識)について語られている部分であり、荘子は『物事の存在と非存在の区別・二つの物の境界線・是非善悪の区別』がない古代にあったとされる混沌とした万物斉同の状態の知(認識)を最高のものだと考えていた。

時代が下るにつれて、『最高至上の道』は世俗的な存在(事物)の区別や是非善悪の価値判断によって段階的に堕落していき、『人間的な愛憎好悪』によって真理に至る道は完全に損なわれてしまうのだという。愛執や煩悩を強く否定することによって悟りを開こうとした仏教との親近性も感じさせられるエピソードである。

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