『荘子(内篇)・斉物論篇』の4

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荘子(生没年不詳,一説に紀元前369年~紀元前286年)は、名前を荘周(そうしゅう)といい、字(あざな)は子休(しきゅう)であったとされる。荘子は古代中国の戦国時代に活躍した『無為自然・一切斉同』を重んじる超俗的な思想家であり、老子と共に『老荘思想』と呼ばれる一派の原型となる思想を形成した。孔子の説いた『儒教』は、聖人君子の徳治主義を理想とした世俗的な政治思想の側面を持つが、荘子の『老荘思想』は、何ものにも束縛されない絶対的な自由を求める思想である。

『荘子』は世俗的な政治・名誉から遠ざかって隠遁・諧謔するような傾向が濃厚であり、荘子は絶対的に自由無碍な境地に到達した人を『神人(しんじん)・至人(しじん)』と呼んだ。荘子は『権力・財力・名誉』などを求めて、自己の本質を見失ってまで奔走・執着する世俗の人間を、超越的視座から諧謔・哄笑する脱俗の思想家である。荘子が唱えた『無為自然・自由・道』の思想は、その後の『道教・道家』の生成発展にも大きな影響を与え、老子・荘子は道教の始祖とも呼ばれている。荘子は『内篇七篇・外篇十五篇・雑篇十一篇』の合計三十三篇の著述を残したとされる。

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金谷治『荘子 全4冊』(岩波文庫),福永光司・興膳宏『荘子 内篇』(ちくま学芸文庫),森三樹三郎『荘子』(中公文庫・中公クラシックス)

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[書き下し文]

斉物論篇 第二(続き)

それ其の成心に随って(したがって)之を師と為さば、誰か独り且た(はた)師なからんや。奚ぞ(なんぞ)必ずしも代い(うつろい)を知りて、心に自ら取れる者のみ之を有せんや、愚かなる者も与に(ともに)有せり。未だ心に成らずして是非を有すは、是れ(これ)今日越(えつ)に適きて(ゆきて)、昔(きのう)至るなり。是れ有ること無きを以て有りと為すなり。有ること無きを有りと為さば、神の禹(う)有りと雖も、且に(まさに)知る能わざらんとす。吾れ独り且た(はた)奈何(いか)にせんや。

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[現代語訳]

自分の内面にある自然な心(あるがままの心)に従ってこれを師にすれば、ただ独りで師がいないという人などいるだろうか、いやそんな人はいないのだ(誰もが成心という師を持っているのだ)。どうして、必ずしも天地万物が移ろう法を初めから知っていて、自分自身の力でその自然の深遠な理法・真理を掴み取れる者だけが成心を持っていることなどあろうか、愚か者であっても同じように成心を持っている。成心(自然な心)に従わずに、どちらが是でどちらが非という区別(論争・対立)をするのは、今日から越国に行こうとしているのに、昨日に越国に到着したという無茶苦茶なことを言っているようなものだ。これは、無いものを有ると言っているのと同じである。有り得ないものを有ると言い張るのであれば、神のような叡智を持つとされる伝説の聖王の禹(う)であっても、もうどうしようもない。(禹に及ばない)私などのような者が、ひとりでどうできるというのか。

[解説]

荘子が人間の自然な精神性の発露である『成心』に従うことの大切さを説いた章である。成心は貴賎貧富を区別することなく、誰にでも生まれながらの自然として備わっているものであり、当然に『天地万物の理法・摂理』を知っているかどうかによって成心の有無が左右されることなどは有り得ないのである。

成心に従う生き方とは『無為自然』につながる生き方でもあるだろうが、荘子は『誰かを是(正しい)とし、誰かを非(悪い)とする是非分別の心』を争いや諍い、不快、動揺、混乱を生み出す『成心に反する非自然的な心』として例に挙げている。

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[書き下し文]

斉物論篇 第二(つづき)

それ言(ことば)は吹くおとには非ず。言(ことば)には言(いみ)有り。其の言(いみ)する所の者、特に未だ定かならざれば、果たして言(ことば)有るといえんや、其れ未だ嘗て(かつて)言(ことば)有りといえず。其れ以てヒナの音に異なると為すも、また弁(くべつ)ありや、其れ弁なきや。

道は悪(なに)に隠りて(よりて)真偽を有し、言は悪に隠りて是非を有すや。道は悪くにか(いずくにか)往きて存せざる、言は悪くにか存して可なからざる。道は小さき成(こころ)に隠り(より)、言は栄えて華る(かざる)に隠る。故に儒墨(じゅぼく)の是非あり。以て其の非とする所を是として、其の是とするものを非とす。其の非とするものを是として其の是とするものを非とせんと欲すれば、則ち明らかなることを以る(しる)に若く(しく)は莫し(なし)

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[現代語訳]

さて、言葉は吹く風の音ではない。言葉には意味がある。その言葉が意味する内容が特定されておらず定かではないならば、それで果たしてその言葉があると言えるだろうか、意味がはっきりしないならいまだその言葉があるとは言えないのだ。その言葉と称するものがヒナの鳴き声とは異なっていると言っても、そこに区別があるか、(意味のない言葉とヒナの無意味な鳴き声との間には)区別はないのだ。

道は何に依拠して真偽を持ち、言葉は何に依拠して是非を持つようになるのか。道はどこにでも存在しており、言葉はどこにでも意味表示が可能なものとして存在している。道の真偽は小さい心(偏見・差別)に依拠して生み出され、言葉の是非は虚栄心や虚飾の欲求によって生み出される。だから、孔子の儒家と墨子の墨家との間に、是非の区別があるのだ。その相手が非とする所を是であると言い張り、是とする所を非として否定する。相手が非とするものを是とし、是とするものを非にしたいと欲求するのであれば、明白な天地万物の絶対的真理(自然の理法・摂理)を知ることに及ぶものはない。

[解説]

認識・意思疎通の道具である『言葉』の特徴と是非の対立を取り上げ、実在・規範を示すものである『道』の特徴と真偽の対立を取り上げている。本来であれば、『言葉』はどのような意味でも持つことが可能であり、『道』はどのような場所にも普遍的に自ら存在し続けているものである。だが、『人間的な偏見・差別・見栄・傲慢』などの要因によって、自分を『是(正しい)』として相手を『非(間違い)』とするような無益な対立と心の混乱が、終わりなく生み出され続けているのである。

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