『徒然草』の125段~128段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の125段~128段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第125段:人におくれて、四十九日の仏事に、或聖を請じ侍りしに、説法いみじくして、皆人涙を流しけり。導師帰りて後、聴聞の人ども、『いつよりも、殊に今日は尊く覚え侍りつる』と感じ合へりし返事に、或者の云はく、『何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなん上は』と言ひたりしに、あはれもさめて、をかしかりけり。さる、導師の誉めやうやはあるべき。

また、『人に酒勧むるとて、己れ先づたべて、人に強ひ奉らんとするは、剣にて人を斬らんとするに似たる事なり。二方に刃つきたるものなれば、もたぐる時、先づ我が頭を切る故に、人をばえ斬らぬなり。己れ先づ酔ひて臥しなば、人はよも召さじ』と申しき。剣にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりき。

[現代語訳]

人に先立たれた家で四十九日の法事を行い、その導師としてある聖(民間の僧侶)をお招きしたが、導師は法事に集まった人たちに説法をして、それを聞いた人は感動して涙を流しあった。導師が帰った後も、聴聞の人たちは『今日の説法は、いつも以上に尊いものでございましたな』と感動しながら話し合っていた。しかし、ある男が『そうでしょうな、あれだけ中国の唐犬に似ているというのは』などと言い出したので、それまでの感動も醒めてしまって、思わず笑い出してしまった。そんな導師の誉めようというものがあるのだろうか。

また、この男は『人に酒を勧める時に、まず自分が飲んでから人に無理やり飲ませようとするのは、剣で人を斬ろうとするのに似ています。諸刃の剣は双方に刃がついているので、人を斬ろうとして持ち上げた時には自分の顔を斬ってしまうので、人は斬れません。これと同じで、先に自分のほうが酔いつぶれてしまえば、人に酒を勧めることなんてできないのです』と申し上げた。この男は本当に剣を持って人を斬ろうとしたことがあるのだろうか。何ともおかしな男であったな。

[古文]

第126段:『ばくちの、負極まりて、残りなく打ち入れんとせんにあひては、打つべからず。立ち返り、続けて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よきばくちといふなり 』と、或者申しき。

[現代語訳]

『ばくちの負けが込んでしまって、全てを賭けてばくちを打とうとする者を相手にすべきではない。立ち返って考えると、次はその相手が続けて勝つ時がやってくるということを知っていたほうがいい。そういう引き時を知っているのが、優れた博徒というものである』と、ある人が言っていた。

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[古文]

第127段:改めて益なき事は、改めぬをよしとするなり。

[現代語訳]

改めても益がない事は、改めないほうが良い。

[古文]

第128段:雅房大納言(まさふさのだいなごん)は、才賢く、よき人にて、大将にもなさばやと思しける比(ころ)、院の近習(きんじゅう)なる人、『ただ今、あさましき事を見侍りつ』と申されければ、『何事ぞ』と問はせ給ひけるに、『雅房卿、鷹に飼はんとて、生きたる犬の足を斬り侍りつるを、中墻(なかがき)の穴より見侍りつ』と申されけるに、うとましく、憎く思しめして、日来の御気色も違ひ、昇進もし給はざりけり。さばかりの人、鷹を持たれたりけるは思はずなれど、犬の足は跡なき事なり。虚言は不便なれども、かかる事を聞かせ給ひて、憎ませ給ひける君の御心は、いと尊き事なり。

大方、生ける物を殺し、傷め、闘はしめて、遊び楽しまん人は、畜生残害の類なり。万の鳥獣、小さき虫までも、心をとめて有様を見るに、子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、嫉み、怒り、欲多く、身を愛し、命を惜しめること、偏へに愚痴なる故に、人よりもまさりて甚だし。彼に苦しみを与へ、命を奪はん事、いかでかいたましからざらん。

すべて、一切の有情を見て、慈悲の心なからんは、人倫にあらず。

[現代語訳]

雅房大納言(土御門雅房)は、学識のある優れた人物で、次は大将にでもしようかと雅房を重用する亀山法王は思っていた。そんな頃、近習の人が法王に、『ただ今、あさましい事を見ました』と申し上げ、法王が『何事か』とお聞きになられた。『雅房様が、鷹の餌として食わせようとして、生きた犬の足を斬り落としたのを、塀の穴より見てしまいました』と近習が申し上げると、法皇は雅房大納言のことを疎ましく不快に感じられ、気分も悪くなってしまった。雅房の昇進の話もいつの間にか無くなってしまった。雅房様が鷹をお飼いになられていたのは知らなかったが、犬の足の話は根拠のないことだった。虚言によって昇進できなかったことは雅房様にとって不憫で可哀想なことだが、こういった虚言を聞いて胸を痛ませられた法皇の御心はとても尊いものだ。

大体、生き物を殺して、傷つけ、戦わせて、遊び楽しむような人は、畜生と同じ類の低劣な存在である。全ての鳥獣はじめ、小さな虫まで、心を傾けてその様子を観てみれば、子を思い、親をなつかしみ、夫婦が連れ添い、妬み、怒り、欲多く、我が身を愛し、命を惜しむことについては、人よりもその愚かさで明らかに勝っている。そんな彼らに苦しみを与えて命を奪うことは、何と痛ましいことだろうか。

すべての心ある生命を見て、慈悲の心が起きないような人は、人としての道を踏み外している。

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