13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。
兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『一人は后に立たせ給ふ~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。
参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)
[古文・原文]
我身の栄花の事(続き)
一人は后に立たせ給ふ。二十二にて皇子御誕生あつて、皇太子に立ち、位に即かせ給ひしかば、院号蒙らせ給ひて建礼門院とぞ申しける。入道相国(にゅうどうしょうこく)の御娘なる上、天下の国母にてましませば、とかう申すに及ばれず。一人は六条の摂政殿の北の政所にならせ給ふ。これは高倉の院御在位の御時、御母代(おんははしろ)とて、准三后(じゅんさんごう)の宣旨をかうぶらせ給ひて、白河殿とて重き人にてぞましましける。
一人は普賢寺殿の北の政所にならせ給ふ。一人は冷泉の大納言隆房(たかふさ)の卿の北の方。一人は七条の修理大夫(しゅりのだいぶ)信隆(のぶたか)の卿に相具し給へり。又安芸国厳島(いつくしま)の内侍(ないし)が腹に一人、これは後白河の法皇へ参らせ給ひて、ひとへに女御の様でぞましましける。その外九条の院の雑仕(ぞうし)、常磐(ときわ)が腹に一人、これは花山の院殿の上臈(じょうろう)女房にて、臈の御方とぞ申しける。
日本秋津島はわづかに六十六か国、平家知行の国三十余か国、既に半国に越えたり。その外庄園田畠(しょうえんでんぱく)幾らと云ふ数を知らず。綺羅充満して堂上花の如し。軒騎群集して門前市をなす。楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍萬宝(しっちんまんぽう)、一つとして欠けたる事なし。歌堂舞閣(かどうぶかく)の基、魚龍爵馬(ぎょりゅうしゃくば)の翫物(もてあそびもの)、恐らくは、帝欠も仙洞もこれには過ぎじとぞ見えし。
[注釈・意訳]
また入道の娘の中で、お一人は徳子といわれ、二十歳の時に皇子を産まれて、その子が皇太子になりその後に天皇となられたので、後に建礼門院と号された。入道相国の娘であり、国母でもあるので、誰も何も申すことなど出来なかった。お一人は盛子といい、摂政の藤原基実の妻となった。高倉院の御在位の時、徳子の生んだ皇太子の乳母を務めて、宣旨によって準三后の待遇を受け白河殿と呼ばれる重要な人物となった。
お一人は普賢寺殿(藤原基通)の妻(北政所)になられた。お一人は冷泉大納言・隆房の妻となり、もうお一人は七条修理大夫・信隆の妻となった。また安芸国の厳島明神の巫女との間に生まれた娘は、後白河上皇の側で女御として仕えた。その他の娘では、九条院に仕えていた雑仕の常盤との間に生まれた娘がいて、花山院殿の上臈女房(身分の高い女官)となり、臈の方と呼ばれた。
日本列島はわずか六十六ヶ国で構成されているが、そのうちの三十余国を既に平家一門が知行し、その支配領域は半国を越えてしまった。その他にも、荘園・田畑の数などは数えられないほどに多くあった。平家には美しい高価な衣服で着飾った人が満ち溢れており、朝廷の殿上はとても華やかである。権力を掌握している六波羅殿(平清盛)の周囲には、陳情・懇請のための車馬が群がり集まってきて、門前市を作ってしまうような状況である。中国にある楊州の黄金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦など、世界中の七珍万宝、一つとして欠けたものがないのである。楽しい歌舞を演じるための楽堂、そこで催される様々な見世物・雑技、天皇の御所も上皇の御所もこの賑わいには及ばないように見えた。
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