清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
このウェブページでは、『枕草子』の『里にても、まづ明くるすなはち、これを大事にて、見せにやる~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
83段:終わり
里にても、まづ明くるすなはち、これを大事にて、見せにやる。十日のほどに、「五日待つばかりはあり」と言へば、うれしく思ゆ(おぼゆ)。また昼も夜もやるに、十四日夜さり、雨いみじう降れば、これにぞ消えぬらむと、いみじう、今一日、二日も待ちつけでと、夜も起きゐて言ひ嘆けば、聞く人も、物狂ほしと笑ふ。
人の出でて行くに、やがて起きゐて、下衆起こさするに、更に起きねば、いみじうにくみ腹立ちて、起き出でたる、やりて見すれば、「円座のほどなむ、侍る。木守いとかしこう守りて、童も寄せはべらず、(木守)『明日、明後日までもさぶらひぬべし。禄賜はらむ』と申す」と言へば、いみじううれしくて、いつしか明日にならば、歌詠みて、物に入れてまゐらせむと、思ふ。いと心もとなく、わびし。
暗きに起きて、折櫃(をりひづ)など具せさせて、(清少納言)「これに、その白からむ所入れて、持て来(もてこ)。きたなげならむところ掻き捨てて」など言ひ遣りたれば、いと疾く、持たせたる物をひきさげて、「はやく失せ侍りにけり」と言ふに、いとあさましく、をかしう詠み出でて人にも語り伝えさせむと、うめき誦(ずん)じつる歌も、あさましう甲斐なくなりぬ。(清少納言)「いかにして、さるならむ。昨日までさばかりあらむ物の、夜のほどに消えぬらむこと」と言ひくんずれば、「木守が申しつるは、『昨日、いと暗うなるまで侍りき。禄賜はらむと思ひつるものを』とて、手を打ちて騒ぎ侍りつる」など、言ひ騒ぐに、内裏(うち)より仰せごとあり。(中宮)「さて、雪は今日までありや」と、おほせ言あれば、いとねたうくちをしけれど、(清少納言)「『年の内、朔日(ついたち)までだにあらじ』と人々の啓し給ひしに、昨日の夕暮まで侍りしは、いとかしこしとなむ、思ひ給ふる。今日までは、あまりの事になむ。夜のほどに、人のにくみて取り捨てて侍るにやとなむ、推しはかりはべる、と啓せさせ給へ」など、聞えさせつ。
[現代語訳]
83段:終わり
里にいる時も、まず夜が明けるや否や、この雪山が気になって、見に行かせた。十日の頃、「十五日まで持つくらいはあります」と言うので、(予想が当たると)嬉しく思った。また昼も夜も人をやっていると、十四日の夜に、雨がひどく降るので、これで雪が消えてしまうだろうととても不安になる、後一日、二日を待てないのかと、夜も起きて嘆いているので、聞いている人も馬鹿みたいだと笑っている。
人が出て行く時に、そのまま起きていて、下衆を起こすのだが全く起きないので、とても憎んで頭に来て、起きだしてきたので使いに出して見させると、「円座の大きさくらいの雪の山が残っています。木守がとても一生懸命に守っていて、子供も寄せ付けず、『明日、明後日までも雪はございますでしょう。禄(褒美)を頂きたいものです』と申しておりました」と言うので、とても嬉しくて、早く明日になれば、歌を詠んで、容れ物に入れて中宮の御前に参上しようと思う。とても落ち着かず、雪の山が残っているか心配である。
朝の暗いうちに起きて、折櫃などを持たせて、(清少納言)「これに、雪の白い所を入れて、持ってきなさい。汚い所は掻いて捨てなさい」など言いつけると、とても早く、持たせた物をぶら下げて、「早くに無くなっていました」と言うので、とても情けない気持ちがして、上手く詠んで人々に語り伝えさせようと悩みながら詠んだ歌も、虚しくも意味のないものになってしまった。
清少納言が「どのようにして、そんな風に消えたのか。昨日まであれほどあった雪が、夜のうちに消えてしまうというのは」と言いながら嘆くと、「木守が言うには『昨日、真っ暗になるまでは雪がございました。禄を頂けるものと思っていたのに』と言って、手を打って騒いでおりました」などと言い騒いでいると、内裏から中宮のお手紙があった。「さて、雪は今日までありましたか」と書かれているので、とても癪に障って残念だけれど、清少納言は「『年内、一月一日までだって雪は残っていないでしょう』とみなさんがおっしゃっていましたが、昨日の夕暮れまで雪が残っていたのは、とても畏れ多いことだと私は思います。今日までというのは、余りに欲張り過ぎました。夜のうちに、誰かが私を憎んで雪を取って捨てたのではないかと推測しています。と中宮様にお伝えください」などと、お返事を差し上げた。
[古文・原文]
83段:終わり
二十日、参りたるにも、まづ、このことを御前にても言ふ。「身は投げつ」とて、蓋の限り持て来たりけむ法師のやうに、すなはち持て来しが、あさましかりしこと、物の蓋に小山作りて、白き紙に歌いみじう書きて、参らせむとせしことなど、啓すれば、いみじく笑はせ給ふ。御前なる人々も笑ふに、「かう心に入れて思ひたることを違へつれば、罪得らむ。まことは、四日の夜、侍どもをやりて取り捨てしぞ。
返事(かへりごと)に言ひあてしこそ、いとをかしかりしか。その女出で来て、いみじう手をすりて言ひけれども、『おほせ言にて。かの里より来たらむ人に、かく聞かすな。さらば屋(や)打ち壊たむ(こぼたん)』など言ひて、左近の司の南の築土(ついじ)などに、皆捨ててけり。『いと堅くて。多くなむありつる』などぞ言ふなりしかば、げに二十日も待ちつけてまし。今年の初雪も降り添ひなまし。上も聞し召して、(帝)『いと思ひやり深くあらがひたり』など、殿上人などにも、仰せられけり。さても、その歌、語れ。今はかく言ひあらはしつれば、同じごと、勝ちたるなり」と、御前にもおほせられ、人々ものたまへど、(清少納言)「なぜうにか、さばかり憂き事を聞きながら、啓しはべらむ」など、まことにまめやかにうんじ心憂(う)がれば、上も渡らせ給ひて、(帝)「まことに年ごろはおぼす人なめりと見しを、これにぞ、あやしと見し」など、仰せらるるに、いとど憂くつらく、うちも泣きぬべき心地ぞする。(清少納言)「いで、あはれ、いみじく憂き世ぞかし。後に降り積みてはべりし雪を、うれしと思ひはべりしに、『それはあいなし。掻き捨てよ』と、仰せ事はべりしよ」と申せば、(帝)「勝たせじとおぼしけるななり」とて、上も笑はせたまふ。
[現代語訳]
83段:終わり
二十日に参上した時も、まずこのことを御前で申し上げた。「身は投げ捨てた」と言って、蓋だけを持って来た法師のように、すぐに雪を入れる容れ物を持って帰ってきたので、びっくりしてしまったこと、容れ物の蓋に小さい山を作って、白い色紙に見事を歌を書き付けて、参上しようと思っていたことなど、中宮に言上すれば、大いにお笑いになられた。御前に控える女房たちも笑うと、「こんなに心に思い入れがあったことが外れてしまったのだから、罪深いことをしてしまったな。本当は、四日の夜に、侍どもを遣わして雪を取って捨ててしまったのです。
お前が送ってくれた返事にそのことが言い当ててあったのが、本当に面白かったですよ。その木守の女が出て来て、必死に手を合わせてやめてと言っていたけれども、『中宮の仰せであります。あの里からやってくる人に、このことを話してはいけない。話したら、お前の家を叩き壊してしまうぞ』などと言って、左近の司の南の築地辺りに、みんな雪を捨ててしまったのです。『雪はとても固くて、多く残っていました』などと伝えていたので、本当に二十日まででも持ったでしょう。今年の初雪までもが降り積もりそうでした。帝もお聞きになられて、『よくぞ深い思いを巡らして、みんなの意見に反対したものだ』などと、殿上人たちにおっしゃられた。それにしても、その歌を詠んでみなさい。
今はこのように本当のことを明らかにしたので、同じことであなたの勝ちなのです
」と、中宮にもおっしゃられて、人々もそう言うけれども、清少納言は「どうして、そんな情けないことを聞きながら、申し上げられるでしょうか」などと、本当に真剣に情けなく思っていると、帝もこちらに渡っていらっしゃって、「本当に、年来、中宮がお気に入りの女房なのだろうと見ていたが、この一件でそれも怪しいように見えてきた」などとおっしゃられると、いっそう情けなくてつらくなり、泣き出したいような気持ちがする。清少納言が「あぁ、情けない、本当に憂鬱な世の中ですね。後に降り積もった雪を、嬉しいと思っていたのに、『それは違う雪だ。掻いて捨てなさい』と中宮様がおっしゃられたりして」と申すと、帝は「お前に勝たせまいと思ったのだろう」と言って、お笑いになられた。
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