『歎異抄』の第三条と現代語訳

“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。

『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。

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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)

[原文]

第三条

一。善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条(じょう)一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善(じりきさぜん)のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。

しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土(しんじつほうど)の往生をとぐるなり。煩悩具足(ぼんのうぐそく)のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因(しょういん)なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。

[現代語訳]

善人ですら極楽往生することができる、ましてや悪人が極楽往生するのは当たり前である。しかし、世の中の人は逆にこう言います。悪人でさえ往生できる、どうして(悪人よりも善行を積んでいる)善人が往生できないことがあるだろうか。この世間の人の言い分は取り敢えずその道理が通っているのですが、仏法(浄土門)の他力本願の趣旨には反しているのです。その理由は、自分の能力・努力で善行を積もうとする人は、ただ一途に阿弥陀仏の他力の救済を頼みにしようとする気持ちが欠けているので(阿弥陀仏の救済ではなく自分の力で自分を救おうとしているので)、それでは弥陀の本願の対象にはならないのです。

そうはいっても、自力に恃む気持ちを改めて、阿弥陀仏の他力をひたすら頼りにしようと思えば、本当の浄土への往生を遂げることができます。俗物の欲望に満たされた未熟な我々は、どのような修行をしても生死の執着・苦悩を離れることができないので、阿弥陀仏はそんな人間を憐れと思われて救済の本願を発心されたのです。この本願は悪人成仏のためであり、自力を捨てて他力をひたすら頼みにしている悪人こそ、元々往生すべき正しい因果のある人だと言えます。だから、(自力救済の)善人でさえ往生できる、ましてや悪人は当然往生できるという風に法然聖人は仰せられたのです。

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