『歎異抄』の第十八条と現代語訳

“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。

『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。

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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)

[原文]

第十八条

一。仏法のかたに、施入物(せにゅうもつ)の多少にしたがひて大小仏(だいしょうぶつ)になるべしといふこと。この条、不可説なり~~、比興(ひきょう)のことなり。まず仏に大小の分量をさだめんこと、あるべからずさふらうか。かの安養浄土(あんようじょうど)の教主の御身量(ごしんりょう)をとかれてさふらうも、それは方便報身(ほうべんほうしん)のかたちなり。

法性(ほっしょう)のさとりをひらひて長・短・方・円(ちょう・たん・ほう・えん)のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒(しょう・おう・しゃく・びゃく・こく)のいろをもはなれなば、なにをもてか大小をさだむべきや。念仏まふすに、化仏(けぶつ)をみたてまつるといふことのさふらうなるこそ、大念には大仏をみ、小念には小仏をみるといへるか。もしこのことはりなんどにばし、ひきかけられさふらうやらん。

かつはまた檀波羅蜜(だんばらみつ)の行ともいひつべし。いかにたからものを仏前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かけなばその詮(せん)なし。一紙半銭(いっしはんせん)も仏法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて、信心ふかくば、それこそ願の本意にてさふらはめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆへに、同朋(どうぼう)をいひをどさるるにや。

[現代語訳]

仏法を行う寺院・僧侶で、寄付の多い少ないによって、大きな仏になったり小さな仏になったりするということ。このことは、不可思議な話、納得できないおかしな説である。まず仏様に大小の分量の違いを定めようとすることが、あってはならない間違いである。あの極楽浄土の教主であられる阿弥陀仏様のご身体の大きさは(経典にも六十億万とか)書かれているが、それは見えない阿弥陀仏様を衆生に分かりやすく伝えるための方便であり、仮のお姿のことである。

悟りを開かれて法性を明らかにした仏様には、長い・短いとか四角い・丸いとかいった形はなく、青・黄・赤・白・黒などの色をも離れているので、何をもってその仏様の大小の違いを定めるのだろうか。念仏を申すと、仮の仏様の姿を見ることができるというのは経典にあるので、大声で念仏をすると大きな仏が見え、小声で念仏をすると小さな仏が見えるとでも言ったのだろうか。もしや、この理屈にもう一つの理屈を付け加えてこじつけでもしたのだろうか。

とはいえ、寺社への寄付行為は檀波羅蜜の行とも言われているものである。どのような宝物を仏前に投げて、師匠に寄付の施しをしたとしても、信心が欠けていたならば意味がない。紙一枚・銭半銭さえも寺院や僧侶に寄付しなくても、他力本願に心を投げて信心が深ければ、それが阿弥陀仏様の本願に叶うことなのである。これらの寄付のことはすべて仏法に事寄せてはいるが、どこかに世俗的な欲求を満たそうとする部分もあるはずなので、仲間である信者を脅すようなことではないか。

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