『中庸』の書き下し文と現代語訳:15

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儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは極端な判断を避けてその状況における最適な判断を目指す中庸(ちゅうよう)の大切さ・有利さを説いた『中庸』の解説をしています。『中庸』も『大学』と同じく、元々は大著『礼記』の中にある一篇ですが、『史記』の作者である司馬遷(しばせん)は『中庸』の作者を子思(しし)としています。

中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められている。『中庸』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていきます。

参考文献
金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『中庸』(講談社学術文庫),伊與田覺『『中庸』に学ぶ』(致知出版社)

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[白文]

右第十九章

践其位、行其体、奏其楽、敬其所尊、愛其所親、事死如事生、事亡如事存、孝之至也。郊社之体、所以事上帝也。宗廟之体、所以祀乎其先也。明乎郊社之体、帝嘗之義、治国其如示諸掌乎。

[書き下し文]

右第十九章

その位を践み(ふみ)、その礼を行い、その楽を奏し、その尊ぶ所を敬し、その親しむ所を愛し、死に事うる(つかうる)こと生に事うるが如く、亡に事うること存に事うるが如きは、孝の至りなり。郊社(こうしゃ)の礼は、上帝(じょうてい)に事うる所以(ゆえん)なり。宗廟(そうびょう)の礼はその先(せん)を祀る所以なり。郊社の礼、帝嘗(ていしょう)の義に明らかなれば、国を治むることそれ諸(これ)を掌(たなごころ)に示すが如きなり。

[現代語訳]

先王と同じ王位を踏襲(践祚)して、先王の礼を行い先王の音楽を演奏し、先王が尊敬していた祖先や賢哲を敬って、先王が親しんでいた臣民や子孫を愛して、服喪で死んだ者に仕える時は生者に仕えるのと同じようにし、葬祭の時には亡くなった者に仕えることを生存者に仕えるのと同じようにした。これは、孝の徳の極限である。天を祀る郊祭、地を祀る社祭は、上帝に仕えていることの現れである。宗廟の祭礼は、その祖先を祀っていることの現れである。天地を祀る郊社の礼、祖先を昭穆の順序で祀る春秋の礼の意味を明らかにすれば、国家を治めることは天下を掌の上に乗せたが如く簡単なことである。

[補足]

儒教では祖先崇拝と上下関係の区別によって社会秩序を維持しながら国家を統治するため、基本的に儒教は『封建主義の身分制度・伝統主義の慣習遵守による秩序』を支え続ける思想・宗教として機能することになった。ここでは天地や祖先をお祭りする『祭祀』によって、天下国家を安定的に修められる所以(理由)について端的に述べている。

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[白文]

右第二十章

哀公問政。子曰、文武之政、布在方策、其人存、則其政与、其人亡、則其政息。人道敏政、地道敏樹。夫政也者、蒲盧也。故為政在人、取人以身、修身以道、修道以仁。

[書き下し文]

右第二十章

哀公(あいこう)政(まつりごと)を問う。子曰く、文武の政、布いて(しいて)方策に在り、その人存すれば則ちその政挙がり、その人亡ずれば即ちその政息む(やむ)。人道は政に敏やか(すみやか)に、地道(ちどう)は樹(じゅ)に敏やかなり。それ政なる者は、蒲盧(ほろ)なり。故に政を為すは人に在り、人を取るは身をもってし、身を修むるは道をもってし、道を修むるは仁をもってす。

[現代語訳]

魯の哀公が政治について問う。先生が答えておっしゃった。文王・武王の政治は過去の方策の中に敷かれて存在しており、かつてのような人材があれば文王・武王の如き政治を行うことができるが、人材がいなくなればそういった善政・武威は終わってしまう。人の道を政治によって実践しようと思えばその変化は敏速であり、地の道で樹木が迅速に生長していくのと同じである。政治というものは、土蜂(ジガバチ)が桑虫の子を変化させてわが子とするようなもので、政治によって百姓(大衆)を道徳的に教化することがその要諦なのである。故に政治を為すには有能な人材がいる、良い人材を取るためには君主の身(徳)を用い、身を修めて徳を身に付けるには道を用い、道を修めようと思えば仁の徳に依拠しなければならない。

[補足]

孔子は理想の政治を『周』の文王・武王の治世に見ていたが、その理想の政治を実現するためには何よりも君主を忠義・智慧・武力をもって支える有能な家臣(人材)が必要だと訴えた。君主は自らの仁徳を練磨することによって、有能で賢明な家臣を集めなければならず、政治の要諦は『君主の仁徳・家臣の才覚』によって百姓大衆を正しい道、善の方向へと教化することにあるのだという。

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[白文]

右第二十章

仁者人也。親親為大。義者宜也。尊賢為大。親親之殺、尊賢之等、体所生也。故君子不可以不修身。思修身、不可以不事親。思事親、不可以不知人。思知人、不可以不知天。

[書き下し文]

右第二十章

仁は人(じん)なり。親(しん)を親しむを大なりと為す。義は宜(ぎ)なり。賢を尊ぶを大なりと為す。親を親しむの殺(さい)、賢を尊ぶの等(とう)は、礼の生ずる所なり。故に君子もって身を修めざるべからず。身を修めんと思わば、もって親に事えざるべからず。親に事えんと思わば、もって人を知らざるべからず。人を知らんと思わば、もって天を知らざるべからず。

[現代語訳]

仁とは人のこと(人に対する道徳)である。仁の中でも自分の親族に親愛の情をもって接することが重大である。義とは宜(事に応じた判断)のことである。義の中でも賢者を尊敬するということが重大である。親族に親しむ場合にも疎遠な人だと親愛は減殺されてしまう、賢者を尊敬する場合にも知性のレベルによって等級をつけて差別してしまう、これが(親疎・知性によって対応が変わるという)『礼』の生じる所以なのである。故に、君子はまず自分の身と道徳を修めなければならない(そうしないと優れた家臣が集まってこない)。故に、我が身を修めようと思えば、自分の親にまずお仕えしなければならない。親に仕えようと思えば、人間というものを知らなければならない。人を知ろうと思えば、天を知らなければならない。

[補足]

儒教の根本原理である『仁』と『義』について分かりやすく説明した部分であるが、儒教はキリスト教的な人間観や道徳規範とは違って『人間の平等』を否定した上で、『君子の取るべき判断・行動』を指し示した宗教である。すなわち、親族・友人に対する親愛の情にあっては、『より親しい者』のほうを優遇するのは当たり前だとし、賢人を尊敬するという場面にあっては、『より賢い人材』のほうを優遇するのは当たり前だとする。

孔子にとってはこういった『親疎(しんそ)・賢愚(けんぐ)による区別(より親しい者・より優れた者の差別的優遇)』は天の道に適った必然的な区別なのである。むしろ、『親疎・賢愚のレベルの評価(等級・ランク付け)』を無視してみんなを平等に扱おうとすれば、自然の摂理や社会の秩序が壊れてしまうという風に孔子は考えており、『人間の自然な本性・感情・付き合い方』にある程度まで忠実な道徳というものを想定していた。

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