中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。
『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 魏公子列伝 第十七』の2について現代語訳を紹介する。
参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)
[『史記 魏公子列伝 第十七』のエピソードの現代語訳:2]
公子が行こうとすると、侯生が言った。「将軍が軍を率いて出軍する時には、主君の命令でさえ受け容れないことがあります。そうして国家の利益を計るのです。公子がもし兵符を合わせて軍兵の引渡しを求めても、晋鄙が公子に軍兵を授けずにその真否を確かめようとして、更に王の命令を請おうとすると、事態が危機に陥るのは必定です。ですから臣(私)の友人である屠畜者の朱亥をお連れになるのが良いでしょう。彼は力のある力士です。臣鄙が公子の申し入れを聴けば、大いに喜ばしいことですが、もし聴き入れなかった場合には、朱亥にこれを撃ち殺させることができます」
この話を聞くと、公子は泣いた。侯生は言った。「公子は死を恐れるのですか。どうしてお泣きになるのですか」 公子は言った。「晋鄙は勇気のある老将軍である。私が行って要求しても恐らく聴き入れないだろう。そうなると、当然、彼を殺すことになる。だから私は泣いたのである。どうして死を恐れなどするだろうか」 こうして公子は朱亥に同行を求めた。朱亥は笑って言った。「臣(私)は市井で刀を鳴らして屠畜を生業としている者です。それにも関わらず、公子はご自身でしばしば私のもとを訪ねてくださいました。私が答礼もしなかったのは、小さな礼儀などは不要だと考えたからです。しかし今、公子は危急の場に立っておられます。今こそ、臣が命を投げ出すべき秋(時)なのです」 そして公子と行動を共にすることになった。
公子が侯生の元へ行ってお礼を述べると、侯生は言った。「臣(私)もお供すべきですが、年老いていて一緒に行くことができません。どうか公子の日程を教えてください。晋鄙の軍に到着する日に、北に向かって自ら首を刎ねて、公子をお送りさせて頂きますから」 公子は出発して業に至った。
公子は、魏王の命令だと偽って、晋鄙に代わろうとした。しかし、晋鄙は兵符を合わせてみたが疑惑を抱き、手を挙げて公子を見つめて、「今、私は十万の軍勢を擁して国境に駐屯し、国家の重任に当たっております。しかし今、たった一台の車でやってきて交替されるというのは、どうしたわけなのでしょうか」といい、公子の言葉を聞き入れまいとした。そのため、朱亥は袖の中に隠していた四十斤の重さの鉄槌で晋鄙を撃ち殺してしまった。公子は遂に晋鄙の軍を率いて、兵をそれぞれの部署に着け、命令を軍に下したのである。
「父子共に軍中にある者は、父は帰国して良い。兄弟共に軍中にある者は、兄は帰国して良い。一人っ子で兄弟のない者は、帰国して父母を孝養せよ」 そして精鋭の選兵八万人を得て、兵を進めて秦軍を撃った。秦軍は邯鄲の包囲を解いて去った。遂に邯鄲を救って、趙国を存続させたのである。趙王と平原君は自ら公子を国境で迎えた。平原君は胡鹿(えびら)を背負って公子の先導役を務めた。趙王は再拝して言った。「古来、賢人は多いものですが、公子に及ぶ者はありません」 この当時はさすがの平原君も、公子に謙遜して肩を並べようとはしなかった。公子が侯生と別れて晋鄙の軍に到着した頃、果たして侯生は北に向かって進み、自ら首を刎ねていた。
魏王は公子が兵符を盗み、偽って晋鄙を殺したことを怒った。公子も自分の罪を知っていたので、秦軍を退けて趙を存続させると、部将に命じてその軍を率いて魏に帰らせ、自分は賓客たちとだけ一緒に趙に留まった。趙の孝成王(こうせいおう)は、公子が魏王の命令を偽って晋鄙の兵を奪い、趙国を存続させてくれたことを徳とし、平原君と相談して五城市の地に公子を封じようとした。公子はこれを聞くと、驕慢の意を生じて、自らの功績を誇る様子が見られた。そこで賓客の一人が公子に言った。
「物事には忘れてはならないことがあり、また忘れなければならないこともあります。人が公子に徳を施してくれた場合には、公子はこれをお忘れになられてはいけません。公子が人に徳を施した場合には、どうかそのことをお忘れ下さい。今回は魏王の命令を偽って、晋鄙の軍兵を奪って趙をお救いになられたのです。確かに、趙においては功績がおありになりますが、魏においては必ずしも忠臣ではないのです。それなのに、公子は驕って自らの功績を誇っておられますが、それは公子のためにもお控えなさるべきことなのです」
これを聞くと、公子はすぐに自責の思いに駆られて、身の置き所もない様子であった。趙王は宮殿を清掃して、自ら公子を出迎えて主人に対する礼を取り、客の上る西側の階段へと公子を案内した。公子は身を縮めて進み、へりくだって主人の上る東側の階段から殿上へと上がった。そして自ら罪過を言い立てて、魏に背いて趙においても功績のないことを語った。趙王は酒席の相手を務めて夕方にまで及んだが、とうとう五条市を献上するということを口に出せずにいた。公子があまりにも謙譲な態度だったからである。しかし公子は遂に趙に留まったので、趙王は高(趙の邑、河北省)を公子の湯沐のための邑とした。魏もまた信陵(河南省)を公子の封邑として捧げたのである。
公子は趙に留まると、趙に二人の処士(無位無官の士)がいると聞いた。毛公(もうこう)は博徒の中に隠れ、薛公(せつこう)は味噌屋に隠れていると聞いて、二人に会いたいと思った。二人は身を隠して公子に会おうとはしなかった。公子はその所在を聞き出すと、ひそかに赴いて会おうとし、二人と交際して非常に喜んだ。平原君はこれを聞くと、その夫人に言った。
「初め、私は夫人の弟の公子は天下無双の人物だと聞いていた。しかし、今聞くところによると、みだりに博徒や味噌屋などと交際しているようである。公子は見識のない妄人に過ぎない」 夫人はその旨を公子に告げた。公子は夫人に暇乞いして去ろうとして言った。「初め、私は平原君は賢人だと聞いておりました。だから、魏王に背いてまで趙を救い、平原君の心に叶うようにしたのです。しかし、平原君の交際ぶりは豪傑ぶっているだけであり、有徳の士人を求めてはいませんでした。私は大梁にいた時から、常にあの二人が賢人だと聞いておりました。趙に参ってからは、あの二人に会えないことを恐れました。ですから、私は二人と交際しましても、なお二人のほうが私との交際を望まないのではないかと恐れているほどなのです。今、平原君は彼らと交際することを恥としています。そのような人物なら交際するに足る人物ではないのです」
そして、公子は旅装を整えてから立ち去ろうとした。夫人は公子の言葉を詳しく平原君に語った。平原君は冠を脱いで謝り、固く公子を引き留めた。平原君の門下はこれを聞いて、半数の者が平原君の元を去って公子に帰属し、天下の士もまた続々と公子に帰服したのである。公子は平原君の客の心を奪ってしまったのである。
公子は趙に留まって、十年の間、魏に帰国しなかった。秦は公子が趙に留まっていると聞いて、日夜兵を出して、東の魏を伐った。魏王はこれを憂慮して、使者を派遣して公子に帰国を促した。公子は晋鄙の軍を奪ったことをまだ魏王が怒っているのではないかと恐れて、門下に以下の訓令を出した。「敢えて魏王の使者のために取り次ぐ者があれば死罪とする」
賓客はみんな、魏に背いて趙に赴いたものだったので、誰も公子に帰国を勧めなかった。すると毛公・薛公の二人が、出かけて公子に会って言った。「公子が趙で重んぜられ、名声が諸侯に聞こえている所以は、ただ魏という背景があるからです。今、秦が魏を攻めて、魏は危急存亡の時にあるのに、公子は心配も為されていません。もし秦が大梁を破り、先王の宗廟を破壊するようになれば、公子は何の面目があって天下にお立ちになることができますか」 この言葉が終わらないうちに、公子はすぐに顔色を変えて、馬車の準備を命じて魏を救うために帰国した。
魏王は公子に会って、喜んで泣き合い、上将軍の印綬を公子に授けた。公子は遂に将軍となった。
魏の安釐王(あんきおう)の三十年、公子は使者を送って、自分が将軍になったことをあまねく諸侯に告げた。諸侯は公子が魏の将軍になったと聞いて、各々将軍を派遣して、兵を率いて魏を救わせた。公子は五国の兵を率いて秦軍を黄河の西に破り、秦の将軍・蒙ゴウ(もうごう)を敗走させ、遂に戦勝に乗じて秦軍を追撃し、函谷関(かんこくかん)に至って秦軍を抑圧することができた。秦軍は敢えて函谷関を出ないようになった。
当時、公子の勢威は天下に大いに振るっており、諸侯の賓客はそれぞれ兵法書を公子に進呈した。公子はすべてそれらの兵法書に命名したので、世間ではこれを魏公子の兵法と称したのである。秦王はこういった情勢を憂慮して、万斤の金を魏にばらまいて、かつて晋鄙の下にいた賓客を集めて求め、公子について魏王に中傷させた。「公子は魏から亡命して、国外にあること十年でしたが、今や魏の将軍となり、諸侯の将軍はみんな公子に従属しています。諸侯はただ魏公子の存在を聞いて、魏王の存在については聞いておりません。公子もまたこのことを利用して、南面して王になろうと望んでおり、諸侯も公子の勢威を恐れて、共に公子を王位に即けようとしています」
しばしば秦は間者を公子の元へと送って、公子はもう即位して魏王となられたのでしょうか、まだなのでしょうかと偽りの情報を流して祝賀させたりした。魏王は毎日のようにそうした中傷を聞いて、それを信じずにはいられなくなり、とうとう別人を公子に代えて将軍にした。公子は讒言のために再び自分が退けられたことを知ると、病気を理由にして朝廷に出仕しなくなってしまった。そして、賓客たちと夜通しの酒宴を続けて、美酒を飲んで、多くの婦女子を近づけた。日夜、歓楽して飲酒すること四年、遂に酒の中毒で死んでしまった。その年、魏の安釐王も薨去した。
秦は公子が死んだと聞くと、蒙ゴウを派遣して魏を攻め、二十城市を抜いて、初めて東郡を置いた。その後、秦は次第に魏を蚕食して、十八年後に魏王を捕虜にし、大梁を攻略したのである。
漢の高祖は、まだ微賤で年齢も若かった頃、しばしば魏公子の賢明さについて聞いた。天子の位に即くに及んで、大梁を通過するごとに、常に公子を祭った。高祖の十二年、黥布(げいふ)を伐っての帰り道、公子のために墓守の五家を置き、代々、毎年、春・夏・秋・冬の四回、公子の祭事を執り行わせることにしたほどである。
太史公曰く――私は大梁の城址に立ち寄った時、いわゆる夷門を探索した。夷門とは城壁の東門である。天下の諸公子の中には、喜んで士と交際するものが多かった。しかし、信陵君が巖穴の隠者と接し、下賤の人々との交際を恥じなかったのは、理由があってのことである。その名声が諸侯に冠たるものであったのは、決して虚名ではないのだ。漢の高祖・劉邦は、大梁を通過するごとに、民に命じて信陵君を祭らせ、その祭事を絶えさせなかったという。
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