『平家物語』の原文・現代語訳9:太政入道は、かやうに天下を掌の中に握り給ひし上は~

スポンサーリンク

13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『太政入道は、かやうに天下を掌の中に握り給ひし上は~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

楽天AD

[古文・原文]

妓王の事

太政入道(だじょうのにゅうどう)は、かやうに天下を掌(たなごころ)の中(うち)に握り給ひし上は、世の誹(そしり)をも憚らず、人の嘲(あざけり)をも顧みず、不思議の事をのみし給へり。たとへば、その頃、京中に聞えたる白拍子(しらびょうし)の上手、妓王・妓女(ぎおう・ぎじょ)とて、おととひあり。とぢと云ふ白拍子が娘なり。しかるに姉の妓王を、入道相國寵愛し給ひし上、妹の妓女をも、世の人もてなす事斜(ななめ)ならず。母とぢにも、よき屋作つてとらせ、毎月に百石百貫(ひゃっこくひゃっかん)を送られたりければ、家内富貴(ふうき)して、楽しい事斜ならず。

そもそも我が朝に白拍子の始まりける事は、昔鳥羽の院の御宇に、島の千歳(せんざい)・和歌の前、彼等二人が舞ひ出したりけるなり。昔は水干(すいかん)に立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しらさやまき)をさいて舞ひければ、男舞(おとこまい)とぞ申しける。しかるを中頃より、烏帽子・刀をのけられて、水干ばかり用ゐたり。さてこそ白拍子とは名づけけれ。

京中の白拍子ども、妓王が幸のめでたき様を聞いて、羨む者もあり、猜む(そねむ)者もあり。羨む者どもは、『あなめでたの妓王御前の幸や。同じ遊女(あそびめ)とならば、誰も皆あの様でこそありたけれ。如何様(いかさま)にも妓と云ふ文字を名に付きて、かくはめでたきやらん。いざや、我らも付いて見ん』とて、或は妓一・妓二と付き、或は妓福・妓徳など付く者もありけり。猜む者どもは、『何でふ、名により、文字にはよるべき。幸はただ先世の生れ付きでこそあんなれ』とて、付かぬ者も多かりけり。

かくて三年と云ふに、又白拍子の上手一人出で来たり。加賀国の者なり。名をば佛(ほとけ)とぞ申しける。年十六とぞ聞えし。京中の上下これを見て、昔より多くの白拍子は見しかども、かかる舞の上手は未だ見ずとて、世の人もてなす事斜ならず。

スポンサーリンク

[現代語訳・注釈]

入道相国(平清盛)は天下を掌中に収めたので、世間の批判もはばからず、人の嘲笑も無視して、世人の理解できない不思議な事ばかりをしていました。例えば、当時の京都で評判になっている芸事の上手い白拍子で、妓王・妓女という姉妹がいました。この姉妹はとぢと言う白拍子の娘でしたが、姉の妓王が入道相国の寵愛を受けただけでなく、妹の妓女も並々ではない愛情を受けていました。母のとぢにも立派な屋敷を建てて与え、毎月二百石・百貫の生活費も送っていたので、一家はすぐに富裕になりこの上なく楽しい日々を送っていました。

そもそも我が国の白拍子の始まりは、昔、鳥羽院の時代に島の千歳と和歌の前という二人が舞い出したのが初めであると言われます。初めは水干に立烏帽子をかぶって、白鞘巻を腰に挿して舞っていたので、『男舞』といっていました。しかし途中から、烏帽子・刀をつけずに水干だけで踊るようになりました。それで、白拍子と呼ばれる事になったのです。

京中の白拍子の中には、妓王の幸運を羨ましく思う者や、妬ましく思う者がいました。羨む者たちは、『本当に妓王御前は運が良い。同じ遊女ならば誰でも皆、彼女のようになりたいものだ。きっと名前に妓という文字が付いているので、縁起が良いのだろう。ならば、自分もこの妓という文字を使おう』と言って、妓一・妓ニあるいは妓福・妓徳などと改名する者も出てきました。

反対に嫉む者は、『どうして名前や文字などで幸せになれるものか、なれるはずがない。幸運は前世の行いによるもので、生まれつき決まっているのだ』と、改名しない者も多くいました。

それから三年という月日が流れて、また一人の白拍子が出てきました。加賀の国の生まれで、名前を仏といい、年齢は十六歳でした。京中の人々はこの仏を見て、昔から大勢の白拍子を見てきたが、これほど舞の上手な者は見たことがないといい、世間の人々は手放しで褒めちぎります。

スポンサーリンク
楽天AD
Copyright(C) 2012- Es Discovery All Rights Reserved