清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
このウェブページでは、『枕草子』の『無名といふ琵琶の御琴を、上の持てわたらせたまへるに~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
89段
無名(むみょう)といふ琵琶の御琴を、上の持てわたらせたまへるに、見などして掻き鳴らしなどすと言へば、弾くにはあらで、緒などを手まさぐりにして、(清少納言)「これが名よ、いかにとか」と聞えさするに、「ただいとはかなく、名もなし」と、のたまはせたるは、なほいとめでたしとこそ覚えしか。
淑景舎(しげいしゃ)などわたり給ひて、御物語のついでに、(淑景舎)「まろがもとに、いとをかしげなる笙(しょう)の笛こそあれ。故殿(ことの)の得させ給へりし」とのたまふを、僧都(そうづ)の君、(隆円)「それは隆円(りゅうえん)に賜へ。おのが許(もと)に、めでたき琴はべり。それにかへさせ給へ」と申し給ふを、聞きも入れ給はで、異事(ことこと)をのたまふに、答へ(いらえ)させ奉らむと、数多(あまた)たび聞え給ふに、なほ物ものたまはねば、宮の御前の、「否、かへじ、とおぼしたるものを」と、のたまはせたる御けしきの、いみじうをかしきことぞ限りなき。
この御笛の名を、僧都の君もえ知り給はざりければ、ただうらめしうおぼいためる。これは、職の御曹司(しきのおんぞうし)におはしまいしほどの事なめり。上の御前に、いなかへじといふ御笛のさぶらふなり。
御前に侍ふ者は、御琴も御笛も、皆珍しき名つきてぞある。玄上(げんじょう)、牧馬(ぼくば)、井手、渭橋(いきょう)、無名など。また和琴なども、朽目(くちめ)、塩釜、二貫(にかん)などぞ聞ゆる。水龍(すいりゅう)、小水龍、宇多の法師、釘打(くぎうち)、葉二(はふたつ)、なにくれなど多く聞きしかど、忘れにけり。
「宜陽殿(ぎようでん)の一の棚に」といふ言くさは、頭の中将こそしたまひしか。
[現代語訳]
89段
無名(むみょう)という名前がついた琵琶の御琴を帝が持って、中宮のお部屋にいらっしゃった時、女房たちがそれを見てかき鳴らしたりもすると言いたいところだが、琴を弾くわけではなく、弦などを手でまさぐって遊んで、「この琴の名前は、何といったでしょうか」と聞くと、中宮は「ただもうつまらない物だから、名前もないのよ」とお答えになられたのは、やはりとても素晴らしいと思われた。
淑景舎(しげいしゃ)の方などがいらっしゃって、中宮と雑談をされたついでに、「私のところにとても素敵な笙(しょう)の笛があるのです。無くなった父上が下さったものなのです」とおっしゃるので、僧都の君が「それを隆円に下さいませんか。私のところに素晴らしい琴がございます。それと交換してください」と申し上げたが、淑景舎の方は全くお聞きにならないで違うことを話しているので、隆円は何とか答えさせようと何回もお聞きになるのだが、それでも返事をしないので、中宮様が「いなかへじ(交換はしたくありません)、とお思いになっておられるので」と、代わりにおっしゃってあげた時のご様子は、とても才気に溢れていてこの上なく素晴らしいものであった。
この御笛の名前を、僧都(隆円)もお知りにならなかったので、ただ恨めしくお思いになっていたようだ。これは、職の御曹司がいらっしゃった時に起こった事である。帝の手元には、「いなかへじ」という名前の御笛があったのである。
帝がお持ちになっているものには、御琴にも御笛にも、みんな珍しい名前が付いている。玄上(げんじょう)、牧馬(ぼくば)、井手、渭橋(いきょう)、無名などの名前である。また和琴(わごん)なども、朽目(くちめ)、塩釜、二貫(にかん)などの名前が付いている。水龍(すいりゅう)、小水龍、宇多の法師、釘打(くぎうち)、葉二(はふたつ)など、他にも色々な名前を聞いたけれど、忘れてしまった。
「宜陽殿(ぎようでん)の第一の棚に置かれるべきもの」という(楽器に対する賞賛の)言葉は、頭の中将がよくおっしゃる言葉であった。
[古文・原文]
90段
上の御局の御簾(みす)の前にて、殿上人、日一日、琴、笛吹き遊び暮らして、大殿油まゐるほどに、まだ御格子(みこうし)はまゐらぬに、大殿油(おおとのあぶら)さし出でたれば、外の開きたるがあらはなれば、琵琶の御琴を、縦様(たたざま)に持たせ給へり。紅の御衣どもの言ふも世の常なる、打ちも張りたるも、数多奉りて、いと黒うつややかなる琵琶に、御袖をうちかけて捕へさせ給へるだにめでたきに、そばより、御額のほどのいみじう白うめでたく、けざやかにて、はづれさせ給へるは、譬ふべき方ぞなきや。近く居給へる人にさし寄りて、(清少納言)「半ば隠したりけむは、えかくはあらざりけむかし。あれは、ただ人にこそはありけめ」と言ふを、道もなきに分けまゐりて申せば、笑はせ給ひて、「別れは知りたりや」となむ、仰せらるる、と伝ふるも、いとをかし。
[現代語訳]
90段
上の御局の御簾の前で、殿上人が一日中、琴を弾いたり笛を吹いて遊んだりなどして、主殿司(とのもづかさ)が明かりを点けにくる頃になって、まだ御格子(みこうし)を下ろしていないのに明かりを持ってきたので、まだ格子が開いていて中の様子が見えるので、中宮は琵琶の御琴を縦にして持っていらした。紅の御衣裳は語るのもはばかられるほど世の常にあるものではない、打ったり張ったりした衣を多数お重ねになって、非常に黒くつやつやとした琵琶の琴を、お袖を琴に打ちかけて持っていらっしゃる。
それだけでも素晴らしいのに、その手元から御額にかけての肌がとても白くて綺麗で、鮮やかに見えるお姿といったら、喩えるものがないほどに美しい。私の近くに座っている女房に近寄って、「顔を半ば隠していたというあの昔の方も、中宮様のようにここまでは素晴らしくは無かったでしょう。あの女は並みの身分の女に過ぎなかったのですから」と言うと、その人は道もないところを分け入って参上して中宮にその讃辞を申し上げると、中宮はお笑いになられて、「別れの悲しみは知っていますか」とおっしゃったが、それを伝えてくるのもとても素敵である。
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