『枕草子』の現代語訳:95

清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

このウェブページでは、『枕草子』の『人ともの言ふことを、碁になして、近うかたらひなどしつるをば~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

156段(続き)

人ともの言ふことを、碁になして、近うかたらひなどしつるをば、「手許してけり」「結(けち)さしつ」など言ひ、男は、「手受けむ」など言ふことを、人はえ知らず、この君と心得て言ふを、(宣方)「なにぞ、なにぞ」と、源中将は添ひつきて言へど、言はねば、かの君に、「いみじう、なほ、これのたまへ」と、うらみられて、よき仲なれば、聞かせてけり。あへなく近くなりぬるをば、「おしこぼちのほどぞ」など言ふ。

我も知りにけりと、いつしか知られむとて、「碁盤はべりや。まろと碁打たむとなむ思ふ。手はいかが。許したまはむとする。頭の中将と等し碁なり。なおぼしわきそ」と言ふに、(清少納言)「さのみあらば、定めなくや」と言ひしを、また、かの君に語りきこえければ、(斉信)「うれしう言ひたり」と、よろこびたまひし。なほ、過ぎにたること忘れぬ人は、いとをかし。

宰相になり給ひしころ、上の御前にて、「詩をいとをかしう誦(ず)じ侍るものを。『蕭會稽の古廟(しょうかいけいのこびょう)をも過ぎにし』なども、誰か言ひはべらむとする。暫しならでもさぶらへかし。口惜しきに」と、申ししかば、いみじう笑はせ給ひて、(帝)「さなむ言ふとて、なさじかし」など、仰せられしもをかし。

されど、なり給ひにしかば、誠にさうざうしかりしに、源中将、劣らず思ひて、ゆゑだち遊びありくに、宰相の中将の御上を言ひ出でて、「『いまだ三十の期(ご)に及ばず』といふ詩を、さらに異人(ことひと)に似ず、誦(ず)じ給ひし」など言へば、(宣方)「などてか、それに劣らむ。まさりてこそ、せめ」とて、詠むに、(清少納言)「更に似るべくだにあらず」と言へば、(宣方)「わびしのことや、いかで、あれがやうに誦(ずう)ぜむ」などのたまふを、

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[現代語訳]

156段(続き)

女房たちが男と語り合って親しくすることを、碁に喩えて、近く語らうような親密な関係になったことを、「置き石を許している」「決着が着いた」などと言い、男は、「石を置かせて頂きます」などと隠語で言うので、人には知られることはないが、この君(斉信)とお互いが了解し合った上で言うのを聞いて、(宣方)「何ですか、何のことですか。」と、源中将は私につきまとってきて聞くけれど、言わないので、斉信の君に、「何てひどいんですか、どうか、教えてください。」と、恨まれて、仲の良い相手なので、教えて上げた。隔てなく近しい関係になることを、「もう石を崩してしまうほどの所に行っている。」などと言う。

源中将は私も知ることができたということを、早く知ってほしいと思って、(宣方)「碁盤はございますか。私と碁を打って頂きたいと思います。手はどうしますか。少し日にちを費やすことを許してくださいますか。頭の中将とは等しい互角の碁ですよ。分け隔てをなさらないように。」と言うと、(清少納言)「そんな風にしたら、石が定まらなくなるのではないですか。」と言ったのを、また、あの斉信の君に語り伝えると、(斉信)「嬉しいことを言ってくれた。」とお喜びになられた。やはり、過ぎ去ってしまったことを忘れない人は、とても素晴らしい。

宰相におなりになられた頃、帝の御前で、「あのお方は詩をとても上手く吟詠されます。『蕭會稽の古廟(しょうかいけいのこびょう)をも過ぎにし』という詩なども、誰があんなに上手く吟詠できるでしょうか。暫くは(宰相にまでならずに)頭の中将としてお仕えすれば良いのに。残念なことです。」と申し上げたところ、帝は大いにお笑いになられて、「そこまで言うならば、昇進の任命を無かったことにしようか。」などと、帝がおっしゃられるのもおかしい。

しかし、宰相におなりになられたので、本当に残念な思いをしていたが、源中将は、宰相になった中将に負けまいと思って、風流人のような感じで遊び歩いているので、宰相の中将の噂話を持ち出して、「『いまだ三十の期(ご)に及ばず』といふ詩を、全く誰も真似ができないほどに、上手く吟詠された。」などと言うと、(源中将・宣方)「どうして、あの人に私が劣るだろうか。もっと上手く吟詠してみせましょう。」と言って吟詠するけれど、(清少納言)「全く宰相の中将の素晴らしい吟詠には及ぶべくもありませんね。」と返すと、「情けないことだな。どうにかして、宰相の中将のように上手く吟詠したいものだ。」などとおっしゃるので、

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[古文・原文]

156段(終わり)

(清少納言)「『三十の期(ご)』といふ所なむ、すべていみじう愛敬(あいぎょう)づきたりし」など言へば、ねたがりて笑ひありくに、陣に着き給へりけるを、わきに呼び出でて、(宣方)「かうなむ言ふ。猶、そこもと教へ給へ」と、のたまひければ、笑ひて教へけるも知らぬに、局(つぼね)のもとに来て、いみじうよく似せて詠むに、あやしくて、「こは、誰そ(たそ)」と問へば、笑みたる声になりて、(宣方)「いみじき事を聞えむ。かうかう、昨日、陣に着きたりしに問ひ聞きたるに、まづ似たるななり。『誰そ』と、にくからぬ気色にて問ひ給ふは」と言ふも、わざと習ひ給ひけむがをかしければ、これだに誦(ずう)ずれば、出でて物など言ふを、「宰相の中将の徳を見ること。その方に向ひて拝むべし」など言ふ。下にありながら、「上に」など言はするに、これをうち出づれば、「誠はあり」など言ふ。御前にも、「かく」など申せば、笑はせ給ふ。

内裏(うち)の御物忌(おんものいみ)なる日、右近の将曹(しょうかん)、光(みつ)なにとかやいふ者して、畳紙(たたうがみ)に書きておこせたるを見れば、(宣方)「参ぜむとするを、今日明日の御物忌にてなむ。『三十の期に及ばず』は、いかが」と言ひたれば、返事に、(清少納言)「その期は過ぎたまひにたらむ。朱買臣(しゅばいしん)が、妻(め)を教へけむ年にはしも」と書きてやりたりしを、またねたがりて、上の御前にも奏しければ、宮の御方(おんかた)にわたらせ給ひて、(帝)「いかで、さることは知りしぞ。『三十九なりける年こそ、さはいましめけれ』とて、宣方は『いみじう言はれにたり』と言ふめるは」と、おおせられしこそ、物狂ほしかりける君とこそ、おぼえしか。

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[現代語訳]

156段(終わり)

(清少納言)「『三十の期(ご)』というところを吟詠しているのが、特に素晴らしい魅力がございましたわ。」などと言うと、悔しがってお笑いになられていたが、宰相の中将が陣の席にお着きになられていたのを、脇へと呼び出して、(宣方)「(吟詠の素晴らしい部分について清少納言が)このように言っております。どうか、そこのところを教えて下さい。」とおっしゃったので、笑って教えていたことも私は知らなかったので、局に源中将(宣方)がやって来て、とてもよく似た感じで吟詠したのを、不思議に思って、「これは、誰ですか。」と聞くと、笑っている声になって、「良いことをお聞かせしましょう。これこれで、昨日、宰相の中将が陣の座にお着きになっていた時に教えてもらったのです。さっそく、似た吟詠になったみたいですね。『誰ですか』と優しい感じの様子でお聞きになられたことですし。」と言うので、わざわざ宰相の中将に習いに行ったというのも面白い。この私(清少納言)が好きな詩さえ吟ずれば、私が出てきておしゃべりなどをするので、(宣方)「宰相の中将の人徳を見ること。その方向に向かって拝まなければならない。」などと言う。局に下がっていながら、「中宮の御前です。」などと使いの者に言わせる時も、この詩を源中将が吟詠すると、「本当はいたのですよ。」などと清少納言が言う。中宮にも、「これこれで」などとお申し上げると、お笑いになられる。

帝の御物忌の日、右近の将曹(しょうかん)、光(みつ)なんとかいう者を使いにして、畳紙に書いて寄越したのを見ると、(宣方)「参上しようと思っていましたが、今日明日にわたっての御物忌なので遠慮しました。『三十の期に及ばず』の吟詠の出来栄えはどうでしょうか。」と書いてあるので、返事に、(清少納言)「その期(ご年齢)はお過ぎになっているのでしょう。朱買臣(しゅばいしん)が妻に戒めを説いた年齢にはまだ及ばないにしても。」と書いて送ったので、また悔しがって、帝にも奏上したので、帝が中宮の御殿にいらっしゃった時、(帝)「どうして、そのようなことを知ったのか。『39歳になった年に、朱買臣は妻に戒めを説いたのだった。』と言って、宣方は『厳しいことを言われてしまった。』と愚痴を言っているらしいぞ。」とおっしゃったので、(わざわざ帝にそんなことをお話になる)源中将・宣方という人は酔狂で物好きなお方なのだなと思われたことだった。

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