清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
このウェブページでは、『枕草子』の『弘徽殿とは、閑院の左大将の女御をぞきこゆる~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
157段
弘徽殿(こきでん)とは、閑院(かんいん)の左大将の女御(にょうご)をぞきこゆる。その御方に、うち臥しといふ者の娘、左京といひてさぶらひけるを、「源中将かたらひてなむ」と、人々笑ふ。
宮の職(しき)におはしまいしにまゐりて、(宣方)「時々は、宿直(とのゐ)などもつかうまつるべけれど、さべきさまに女房などももてなしたまはねば、いと宮仕えおろかにさぶらふこと。宿直所(とのゐどころ)をだに賜はりたらば、いみじうまめにさぶらひなむ」と言ひゐたまへれば、人々「げに」など答ふる(いらうる)に、(清少納言)「まことに、人はうち臥し休む所のあるこそ、よけれ。さるあたりには、しげうまゐりたまふなるものを」と、さし答へたりとて、(宣方)「すべて、ものきこえじ。方人(かたうど)と頼みきこゆれば、人の言ひふるしたるさまにとりなしたまふなめり」など、いみじうまめだちて怨じたまふを、(清少納言)「あな、あやし。いかなることをかきこえつる。さらに聞きとがめたまふべきことなし」など言ふ。
[現代語訳]
157段
弘徽殿とは、閑院の左大将の姫君の女御をそう申し上げるのだ。その女御に、うち臥しという者の娘が、左京という名前でお仕えしていたのを、「源中将が親密になられている」と、人々が笑う。
中宮が職の御曹司にいらっしゃったので参上して、(宣方)「時々は、夜の宿直などでもお仕えすべきなのですが、女房たちが然るべきもてなしをして下さらないので、どうも宮仕えが疎かになってしまっています。せめて宿直所のお部屋を頂けましたら、とても真面目にお仕えするのですが。」とおっしゃると、女房たちが「本当に」などと答える。(清少納言)「本当に、人は横になって休める所があるというのは、良いことですね。そういった所には、しげしげと頻繁に参っていらっしゃるようですが。」と、横から割って答えてきたと言って、(宣方)「これからは、貴女とはお話しません。味方だと思って頼みにしていれば、人が言い古した昔の噂話を、こんな風に広めておしまいになる。」など、とても真剣にお怨みになっておられるので、「あぁ、おかしなことを。私がどんなことを申し上げたというのですか。全く聞かれて咎められるようなことを言った覚えはありませんが。」などと私(清少納言)は言う。
[古文・原文]
157段(終わり)
かたはらなる人をひきゆるがせば、「さるべきこともなきを、ほとほりいでたまふやうこそはあらめ」とて、はなやかに笑ふに、(宣方)「これも、かの言はせたまふならむ」とて、いとものしと思ひたまへり。(清少納言)「さらにさやうのことをなむ言ひはべらぬ。人の言ふだに、にくきものを」と答へて引き入りにしかは、後にもなほ、(宣方)「人に恥ぢがましきこと、言ひつけたり」と恨みて、「殿上人笑ふとて、言ひたるなめり」と、のたまへば、(清少納言)「さては、一人を恨みたまふべきことにもあらざなるに、あやし」と言へば、その後は、絶えてやみたまひにけり。
[現代語訳]
157段(終わり)
傍にいる女房を揺さぶると、「そんな悪いことは申し上げていないのに、お怒りになられているのは何か理由があるのでしょう。」と言って、華やかに笑っているので、(宣方)「これも、あの人が言わせているのだな。」と言って、とても不快に思っておられる。(清少納言)「本当にそんな悪いことは申し上げていません。人が悪口を言うのだって、私は憎たらしいものなのですから。」と答えて部屋に引っ込んでしまったので、後になってまだ、(宣方)「人の恥になるようなことを言いつけた。」とお恨みになって、「殿上人が笑っているので、あんなことを言ったのだろう。」とおっしゃるので、(清少納言)「それなら(殿上人が大勢でお笑いになっているなら)、私一人だけを特別にお恨みになるべきではないのに、おかしな方です。」と言うと、その後は、源中将の関係は完全に絶えてしまったのである。
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