優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。
小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。 このウェブページでは、『蝉丸のこれやこの〜』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。
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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)
[和歌・読み方・現代語訳]
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
蝉丸(せみまる)
これやこの ゆくもかえるも わかれては しるもしらぬも おおさか(あふさか)のせき
これだこれ、旅に行く人も帰る人も、知っている人も知らない人も、別れてはまた出会うという逢坂の関だよ。
[解説・注釈]
蝉丸(生没年不詳)は、平安時代初期に活躍した音楽家・歌人であり、一説には盲目の琵琶(楽器)の名人、琵琶法師だったとも伝えられている。蝉丸の人物や履歴の詳細は不明であるが、宇多天皇の皇子敦実親王の雑色、醍醐天皇の第四皇子などの諸説もあり、逢坂の関に庵を結んでそこを行き交う市井の人々を眺めていたという。
『逢坂の関』は、山城国(京都府)と近江国(滋賀県)の境界上にあった古代の関所であり、京都から東海地方や北陸地方へと向かう旅人たちが必ず通過する『交通の要衝』として知られていた。蝉丸のこの歌は自分自身は『隠者』として逢坂の関の近くに庵を構えながらも、そこから『世俗の人々の交通』を静かに眺めているという図式を想像させる。知っている人も知らない人も、出会っては別れ、別れては出会うという事をひたすらに繰り返していると蝉丸は謳っているが、この歌は仏教の『会者定離(えしゃじょうり)・無常観』の真理につながるかのような人々を眺める洞察力を感じさせる歌である。
蝉丸は『古今和歌集』でも無常観・虚無感を題材にした歌を詠んでいる。『世の中は とてもかくても 同じこと 宮も藁屋も 果てしなければ』では、豪華な貴族の宮殿も貧しい庶民の藁屋も結局は同じことである、上を見ても下を見ても切りがないという虚無感のような情緒を巧みに詠み上げている。