“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。
『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。
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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)
[原文]
第四条
一。慈悲に聖道・浄土(しょうどう・じょうど)のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくにたすけとぐること、きはめてありがたし。
浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏(ぶつ)になりて、大慈大悲心(だいじだいひしん)をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生(こんじょう)に、いかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば念仏まふすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらうべきと云々。
[現代語訳]
(仏法だけではなく)慈悲においても、聖道門と浄土門の区別があります。聖道門の慈悲というのは、生きとし生けるものを哀れんだり愛しく感じたりして、育もうとすることです。しかし、思い通りに憐れと思う者を助けてあげられることは、実際には極めて稀で難しいことです。
浄土門の慈悲というのは、念仏して急いで仏になり(悟りを開き)、仏としての大いなる哀れみと愛情をもって、思い通りに助けようとする衆生に利益を与えられることを言うのでしょう。この世で、どんなにか生きている相手を愛おしく思い、憐れだと思ってみても、思い通りにその相手を助けることは難しいので、この慈悲には一貫性がありません。だから、(無理に因果・現実に逆らおうとせずに)念仏をひたすら唱えることが、筋の通った一貫性のある大いなる慈悲心ということになるのです。
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