『史記 穣侯列伝 第十二』の現代語訳:1

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 穣侯列伝 第十二』の1について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 穣侯列伝 第十二』のエピソードの現代語訳:1]

穣侯魏冉(じょうこう・ぎぜん)は、秦の昭王の母、宣太后(せんたいごう)の弟である。その先祖は楚の人で、姓はビ氏(びし)だった。

秦の武王が亡くなって子が無かったので、弟を立てて昭王とした。昭王の母は元ビ八子(びはつし)と呼ばれた。昭王が即位する時、ビ八子を宣太后と呼ぶようになった。宣太后は武王の母ではない。武王の母は恵文后(けいぶんこう)と呼ばれたが、武王に先立って亡くなった。宣太后には二人の弟があった。父親が異なる年上の方の弟を穣侯(じょうこう)といった。姓は魏氏(ぎし)、名は冉(ぜん)である。宣太后と同父の弟をビ戎(びじゅう)といい、華陽君(かようくん)となった。昭王の同母の弟を、高陵君(こうりょうくん)、涇陽君(けいようくん)といった。これらの人の中で魏冉が最も賢明であった。

魏冉は恵王・武王の時代から、官職に任命されて国事に当たった。武王が死ぬと、諸弟が即位を争ったが、主に魏冉の力添えによって昭王は即位することができたのである。昭王は即位すると、魏冉を将軍に任命して、咸陽(かんよう,秦の国都)を護衛させた。魏冉は季君の乱を誅伐して、武王の后を放逐して魏へと追い出し、昭王の諸兄弟で善くない者(反旗を翻しそうな者)はみんな滅ぼし、その威を秦国に振るった。昭王が幼少だったので、宣太后が自ら国を治め、魏冉に国政を委任した。

昭王の七年、樗里子(ちょりし)が死んだ。涇陽君(けいようくん)を斉に人質に出した。趙人(ちょうひと)の楼緩(ろうかん)ややって来て秦の宰相になった。趙はそれを不利とし、仇液(きゅうえき)に命じて秦に行かせ、魏冉を秦の宰相にするように請願させようとした。仇液がまさに行こうとすると、その食客(しょっかく)の宋公が仇液に言った。「秦があなたの言葉を聴き入れなかった場合でも、楼緩は必ずあなたを怨むでしょう。あなたは楼緩に『秦王に対する請願は、公のために急がずにやりましょう』という方が良いでしょう。秦王は、魏冉を宰相にしてほしいという趙の請願が、急がなくても良いと見れば、逆にあなたの言葉を聴かないでしょう(すなわち、魏冉を宰相にしてくれるでしょう)。あなたがおっしゃっても事が成らなければ、楼緩に徳を施すことになり、事が成れば、魏冉は元よりあなたを徳とするでしょう。」

それを聞いて、仇液はその意見に従った。秦は果たして楼緩を罷免し、魏冉が秦の宰相になった。

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魏冉は呂礼(りょれい)に誅伐を与えようとしたが、呂礼は斉に出奔してしまった。

昭王の十四年、魏冉は白起(はくき)を起用して、向寿(しょうじゅ)に代えて将軍に任じ、韓・魏を攻めてこれを伊闕(いけつ,河南省)に破り、首を斬ること二十四万、魏の将軍の公孫喜(こうそんき)を捕虜にした。翌年、また楚の宛・葉(えん・しょう)を取った。魏冉は病気を理由にして宰相を辞任し、客卿(かくけい,外国人の大臣)の寿燭(じゅしょく)が宰相になった。その翌年、寿燭が辞めて、また魏冉が宰相になった。その時に秦は魏冉を穣(じょう,河南省)に封じ、更に陶(とう,山西省)を加えて、穣侯(じょうこう)と呼んだ。

穣侯は封ぜられて四年後、秦の将軍となって魏を攻めた。魏は河東の四百里四方を秦に献上した。また、魏の河内(かだい)を攻略して、大小六十余の城市を取った。昭王の十九年、秦は西帝と称し、斉は東帝と称した。一ヶ月余りが経過して、呂礼が来て服し、斉・秦は帝号を廃止して、再び王号を称した。魏冉がまた秦の宰相になった。六年後に罷免され、辞めてから二年後に、また宰相になった。その四年後、白起に命じて楚の郢(えい,楚の国都・湖北省)を攻略させ、南郡を置いた。そして、白起を封じて、武安君(ぶあんくん)とした。白起は穣侯が推挙した人物で、仲が良かった。そして、穣侯の富は、秦の王室以上のものとなった。

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昭王の三十二年、穣侯は相国(しょうこく)になった。それから兵を率いて魏を攻め、魏の将軍・芒卯(ぼうぼう)を敗走させ、北宅(ほくたく,河南省)に侵入し、遂に大梁(だいりょう,魏の国都・河南省)を包囲した。魏の大夫・須賈(しゅか)が穣侯に説いた。

「臣(私)は、魏の高級官吏が魏王にこういったと聞いております。『昔、魏の恵王は趙を伐って三梁(さんりょう,南梁)で戦勝し、邯鄲(かんたん,趙の国都)を抜きました。しかし、趙は土地を魏に割譲しなかったので、邯鄲は趙に返りました。また、斉が衛を攻めて、その古い都を抜き、大夫・子良(しりょう)を殺しました。しかし、衛は土地を斉に割譲しなかったので、古い都は衛に返りました。衛・趙の国家が兵力が強くて、その土地を全く諸侯に併合されなかった所以は、よく艱難を耐え忍んで、土地を他国に与えることを重大に考えたからです。しかし、宋・中山(そう・ちゅうざん)は、しばしば攻撃されて土地を他国に割譲したので、国家はそれに従って滅亡しました。臣は衛・趙を手本とすべきであり、宋・中山は戒めとすべきだと思います。秦は貪欲・乱暴な国で、親愛の情がありません。魏を蚕食して元の晋の土地を全て取ろうとするのです。我が軍の将軍・暴鳶(ぼうえん)に勝って、八県を抜いて取りましたが、その地がまだ完全に秦のものにならない間に、また出兵しようとしているのです。そもそも、秦にはもうこれで十分だということがないのです(秦は非常に貪欲なのです)。今また、芒卯を敗走させて北宅に侵入していますが、これは魏を攻撃すること自体が目的ではないのです。大王を脅かして多くの土地を割いて奪い取ろうとしているのです。大王は絶対にお聴き入れになってはいけません。今、大王が楚・趙に背いて秦と講和すれば、楚・趙は怒って大王と絶縁し、大王と競い合って秦に仕えようとするでしょう。そして、秦は必ず楚・趙を受け容れるでしょう。秦が楚・趙の兵力を連れて再び魏を攻めれば、魏が我が国が滅びないようにと願っても、その願いは叶うものではありません。どうか大王は絶対に秦と講和をしないでください。もし大王が講和を望まれるのであれば、少しだけ土地を割譲して秦から人質を取るようにしてください。そうしなければ、必ず裏切られるでしょう。』  臣は魏でこう聞きましたが、どうか大王はこれらのことを深く考えてから事を決めるようにして下さい。

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