『史記 張儀列伝 第十』の現代語訳:6

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 張儀列伝 第十』の6について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 張儀列伝 第十』のエピソードの現代語訳:6]

張儀は斉を立ち去り、西に行って趙王に言った。「秦王は使臣(私)を通して、愚計を大王に申し上げたいと思っております。大王は天下の諸侯を統率して秦を追い払いましたので、秦の兵は十五年間、敢えて函谷関を出ることがありませんでした。大王の威厳は山東にまで及んでいます。秦は恐懼してひれ伏し、甲冑を繕って武器を磨き、車馬を飾って騎射を練習し、田畑を耕して糧食を蓄え、国境を守って憂い恐れながら過ごし、敢えて兵を動かすことがありませんでした。それはただ大王に秦を監視して責める意志がおありになったからです。

今、秦は大王の力を恐れて力を蓄えたおかげで、巴・蜀を取って、漢中を併合し、両周を得て、九鼎(きゅうてい)を遷し、白馬の津(舟の渡し場)を守ることができています。秦は僻遠の国といえども、忿怒(ふんぬ)思いを長く抱き続けてきたのです。今、秦は疲弊した軍隊ではありますが、縄池(べんち)に陣を構えています。黄河を渡り章水(しょうすい)を超えて、番吾(はご)に依拠して、邯鄲(かんたん)の城下で大王と会合し、甲子の日(周の武王が殷の紂王を放伐した日)に合戦を挑み、周の武王が殷の紂王を征伐した日の再現をしたいと願っています。使臣(私)を通して慎んでまず大王の左右の家臣の方々にもそのことを申し上げに参ったのです。

およそ大王が合従策の有利を信じられたのは、蘇秦(そしん)の説を頼みにしたからでしょう。しかし、蘇秦は諸侯を惑わして、是を非とし、非を是として、斉国を転覆しようと欲し、市において車裂きの刑罰に処されたような人物なのです。そもそも、こんな人物に天下を一つに統一することなどできないのは明らかです。今、楚と秦は兄弟の国になり、韓・魏は秦の東藩(とうはん,東の防壁)の臣下と称し、斉は秦に魚塩の地を献上しました。これは趙の右臂(みぎひじ)を切断したのと同じことなのです。そもそも、右臂を切断されて人と戦い、仲間を失って孤立してしまえば、その危機を無いものにしようとしても、そんなことができるでしょうか、いや、それは不可能なことなのです。

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今、秦が三将軍を派遣して趙を攻めるとします。その一軍は午道(ごどう,趙の東・斉の西の土地)を塞ぎ、斉に通告して軍を発して清河を渡り、邯鄲の東に陣取ります。一軍は成皋(せいこう)に陣取って、韓・魏の軍を河外の地まで追い立てます。もう一軍は、縄池(べんち)に陣取り、四国が一体になって趙を攻めるでしょう。趙が降伏すれば、四国で趙の領地を分割するでしょう。ですから、敢えて実情を隠さずにまず大王の左右の家臣の方々に申し上げたのです。臣(私)が密かに大王のために計略を考えますと、秦王と縄池で会合されて親しく対面して、ご自身の口で同盟を結ばれるに越したことはありません。それまで我が秦には願いでて趙を攻めないようにしておきます。どうか大王の方針を定めてください。」

趙王は答えて言った。「先王(粛侯)の時には、奉陽君が権力を専らにして権勢を振るい、先王の徳を覆い欺いて、独断で政治を行っていた。その時、寡人(私)は師傅(お守役)の下にあって、国家の謀略に参加することはできなかった。先王が群臣を残して亡くなったが、寡人はまだ年少で祖先の祭祀を始めてから日も浅かったので、心密かにどうしたら良いのか迷っていた。考えてみると、諸侯と合従して秦に仕えないことは、国家の長期的な利益にはならない。だから、心を変えて思慮を働かせ、国土を割いて過去の過ちを謝罪して秦に仕えようと思ったのである。まさに、車に馬をつなぎ急いで秦に行こうとしていたが、そこにちょうど使者のあなたの明快なご助言を受けることになったのである。」

趙王は張儀の意見を許して、張儀は趙を立ち去った。張儀は北の燕に赴いて、燕の昭王に言った。「大王が親しくしている一番の国は趙です。昔、趙王の祖先の趙襄子(ちょうじょうし)は、その姉を代王の妻にしましたが、それは代を併合しようとしたからです。その後、趙襄子は代王と約束して句注山(こうちゅうざん,山西省)の要塞で接遇しました。その時に、職人(工人)に命令して金の酒器を作らせ、その柄を長くして人を叩けるようにしたのです。代王との酒宴の時に、密かに料理人に『酒が酣(たけなわ)となって酔ってきたら、熱い吸い物を勧めて、代王を酒器の底で打ち殺せ』と命令しました。

そして、酒宴が酣になってきた頃、熱い吸い物を勧めて、料理人がお酒を注ぐ振りをして、酒器の底で代王を打ち殺してしまったのです。代王の脳髄は地に塗れました。趙襄子の姉をこの暗殺を聞いて、笄(かんざし)を研いで自殺しました。その由来から今も摩笄山(まけいざん,河北省)という山があるのです。代王がこのようにして亡ぼされたことは、天下で聞いたことのない者はいません。

そもそも趙王が暴虐で親しむことができないのは、大王もよく明らかに知っていることでしょう。それでも、趙王を親しくする相手としますか。趙は兵を興して燕を攻め、何度も燕の国都を包囲して大王を脅しました。大王は十城市を割譲して謝罪されたのでしょう。今、その趙王は縄池(べんち)において秦に入朝し、河間の地を奉じて秦に仕えております。もし、大王が秦にお仕えにならなければ、秦は雲中・九原(うんちゅう・きゅうげん,陝西省)に軍を送って、趙を駆り立てて燕を攻めるでしょう。そうなると、易水・長城(えきすい・ちょうじょう)はもはや大王の所有ではなくなります。

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かつまた、今、趙は秦の郡県のようなもので、趙は秦の許可がなければみだりに攻伐(戦争)をすることはできません。今、大王が秦にお仕えになれば、秦王は必ず喜ぶでしょう。趙は勝手に動くことはできませんし、燕には西に強秦の援助があり、南に斉・趙の憂患がなくなるということなのです。ですから、大王はどうか熟慮されてください。」

燕王は言った。「寡人(私)は蛮夷の僻遠の地に拠点を構えているので、身体は大きな男子といえども、知恵はまだ嬰児(赤ちゃん)のようなものだ。周りに、正しい計略を立てるのに役立つまともな議論がなかった。しかし今、上客(あなた)が幸いにも教えて下さった。西面して秦に仕えることにしよう。」と言って、恒山(こうざん)の麓にある五城市を秦に献上した。

燕王が張儀の意見を聴許したので、張儀は秦に帰って報告しようとしたが、まだ咸陽(陝西省・秦の国都)に到着しないうちに、秦の恵王が亡くなって武王が即位した。武王は太子の頃から、張儀のことを良く思っていなかった。更に即位する時に、群臣が張儀について讒言(非難・誹謗)して言った。「張儀は言葉に信がなく、左右に国を売ってただ相手に受け容れられようとしています。秦が再び彼を用いるのであれば、恐らく天下の笑い物になるでしょう。」

諸侯は張儀が武王と仲が良くないと聞いて、みんな、連衡の約束に背いて、秦に対抗する合従策に戻ってしまった。

秦の武王の元年、群臣は日夜、張儀を誹謗してやまず、斉も張儀を批判してきた。張儀は誅罰を受けるのを恐れて、秦の武王に言った。「私に愚計があります。どうか申し上げさせて下さい。」「何であるか?」

張儀は答えて言った。「秦の国家のために考えると、東方に大きな変乱が起こってこそ、その後に大王は諸侯の土地を多く割譲させることができるのです。今、聞くところによると、斉王は私を非常に憎んでいるということですが、私の居る所に、必ず兵を興して攻めてくるでしょう。ですから、不肖のこの身にお休みを頂いて魏(梁)に参りたいのです。すると、斉は必ず軍を興して魏を伐ちます。魏・斉の兵は城下に連なって戦い、お互いに退却することができなくなりますから、大王はその隙を突いて韓を伐ち、三川(さんせん)へと入り、兵を函谷関から出して攻撃はせずに周を囲めば、周の祭器(天下の盟主・天子であることの証拠)は必ず出てくるでしょう。天子を擁して、その文書・地図を把握して統治することは、まさに王者の大業なのです。」

秦王はなるほどと思い、戦車三十乗を準備して、張儀を魏(梁)に送った。斉はやはり軍を興してこれを伐とうとした。魏の哀王は恐れていた。張儀は言った。「大王は心配されないで下さい。斉の兵を引かせて御覧にいれます。」 そこで張儀は舎人(家来)の馮喜(ふうき)を楚に派遣して、楚の使者という名義を借りて斉に行き、斉王に対して言った。「大王は非常に張儀のことを憎んでおられます。しかし、大王は張儀を秦に託して保護させていて、そのことは手厚いものがあります。」 斉王は言った。「寡人(私)は張儀を憎んでいる。張儀の居る所は、必ず軍を興して伐つのだ。どうして張儀を秦に託して保護などするだろうか。」

馮喜(ふうき)は答えて言った。「そのようにされることが、大王が張儀を秦に託して保護することになるのです。そもそも、張儀が秦を出る時に、初めから秦王と次のような約束をしていたのです。『秦の大王のために考えると、東方に大きな変乱が起こってこそ、その後に大王は諸侯の土地を多く割譲させることができるのです。今、聞くところによると、斉王は私を非常に憎んでいるということですが、私の居る所に、必ず兵を興して攻めてくるでしょう。ですから、不肖のこの身にお休みを頂いて魏(梁)に参りたいのです。すると、斉は必ず軍を興して魏を伐ちます。魏・斉の兵は城下に連なって戦い、お互いに退却することができなくなりますから、大王はその隙を突いて韓を伐ち、三川(さんせん)へと入り、兵を函谷関から出して攻撃はせずに周を囲めば、周の祭器(天下の盟主・天子であることの証拠)は必ず出てくるでしょう。天子を擁して、その文書・地図を把握して統治することは、まさに王者の大業なのです』

秦王はなるほどと思ったので、戦車三十乗を準備して張儀を魏に送ったのです。今、張儀が魏に入ると、大王はやはりこれを伐とうとしています。これは大王が内では自国を疲弊させ、外では与国(味方の国)を伐って、隣国を敵に回して自ら仕掛けて(張儀の思っていた通りに動き)、張儀のことを秦王に信用させているようなものです。だから、私は張儀を秦に託して保護していると申し上げたのです。」 斉王は「分かった」と言い、軍の陣容を解いた。張儀は一年間、魏の宰相を務めて、魏で死んだのである。

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