『史記 白起・王翦列伝 第十三』の現代語訳:1

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 白起・王翦列伝 第十三』の1について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 白起・王翦列伝 第十三』のエピソードの現代語訳:1]

白起(はくき)は眉(び)の人である。用兵に優れていて、秦の昭王に仕えた。昭王の13年、白起は左庶長(さしょちょう,秦国の爵位)となり、将軍として韓の新城(河南省)を攻めた。この年、穰侯(じょうこう)が秦の宰相となり、任鄙(じんぴ)を採用して漢中郡(かんちゅうぐん)の守(しゅ)にした。翌年、白起は左更(さこう,秦国の爵位)となり、韓・魏を伊闕(いけつ)において攻め、首を斬ること24万、また敵将の公孫喜(こうそんき)を捕虜にして、五つの城を抜いた。

白起は昇進して国尉(こくい,官名)となり、黄河を渡って韓の安邑(あんゆう,山西省)以東の、乾河(かんが)に至るまでの地を取った。翌年、白起は大良造(だいりょうぞう,爵位)となり、魏を攻略して大小61の城市を取った。翌年、白起は客卿(かくけい,外国人の大臣)の司馬錯(しばさく)と一緒に、垣城(えんじょう,山西省)を攻めてこれを抜いた。その五年後、白起は趙を攻めて光狼城(こうろうじょう,山西省)を抜いた。その七年後、白起は楚を攻めて、焉・鄧(えん・とう)など五城市を抜いた。

その翌年、楚を攻めて郢(えい,楚の国都)を抜き、夷陵(いりょう,湖北省)を焼き払い、東の竟陵(きょうりょう,湖北省)にまで至った。楚王は郢(えい)を去って東に逃亡し、都を陳(河南省)に遷した。秦は郢を南郡とした。白起は昇進して武安君(ぶあんくん)となった。武安君はその地位によって楚を取り、巫郡・黔中郡(ふぐん・けんちゅうぐん)を平定した。

昭王の34年、白起は魏を攻めて華陽(かよう,河南省)を抜き、敵将・芒卯(ぼうぼう)を敗走させ、三晋(韓・魏・趙)の将軍を捕虜にし、首を斬ること13万であった。趙の将軍・賈偃(かえん)と戦い、その士卒2万人を黄河に沈めた。昭王の43年、白起は韓の勁城(けいじょう,山西省)を攻めて五城市を抜き、首を斬ること5万であった。44年、白起は南陽(韓の邑,河南省)を攻めて、太行山(たいこうざん)への道を断ち切った。

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45年、韓の野王(やおう,河南省)を伐った。野王は秦に降り、それによって上党への道が絶えてしまった。上党の守(しゅ)の馮亭(ふうてい)は、民と相談してから言った。「鄭(てい,韓の国都)からの道が途絶えてしまったので、韓がここの住民を保護できないのは必定である。秦軍は日に日に侵攻してきているが、韓は応戦することができない。こうなると、この上党を趙に帰属させるに越したことはないだろう。もし趙が上党を受け容れれば、秦は怒って必ず趙を攻めるだろう。趙が秦軍に攻められれば、必ず韓と親善するだろう。韓と趙が連合すれば、秦に敵対することができる。」

そこで使者を送って、趙に報告させた。趙の孝成王(こうせいおう)は、平陽君・平原君(へいようくん・へいげんくん)とこの問題を図った。平陽君は言った。「受け容れないほうが良いでしょう。受け容れたことで起こる禍は、得る所のものよりも大きいでしょう。」 平原君は言った。「特別なこともなく一郡を得られるのです。受け容れたほうが利便は大きいでしょう。」 趙はこれを受け容れて、馮亭(ふうてい)を封じて華陽君(かようくん)とした。

46年、秦は韓の侯氏(こうし)・藺(りん,河南省)を攻めてこれを抜いた。47年、秦は左庶長の王乞(おうこつ)を派遣して韓を攻めさせ、上党を取った。上党の民は趙に逃走した。趙は長平(ちょうへい,山西省)に軍陣を布き、上党の民を鎮撫した。四月、よって王乞は趙を攻めた。趙は廉頗(れんぱ)を将軍に任命した。趙軍の士卒が秦の斥候兵に戦いを仕掛けたが、秦の斥候兵は趙の副将の茄(か)を斬った。六月、秦軍は趙の軍陣を陥れて、二つの保塁(ほるい)を取り、四人の将校を捕虜にした。七月、趙軍は塁壁(るいへき)を築いてこれを守った。秦はまたその塁壁を攻め、二人の将校を捕虜にし、その陣を破って更に西方の塁壁を奪った。

廉頗(れんぱ)は塁壁を堅固にして、秦軍が攻めてくるのを待った。秦軍は何度も挑戦したが、趙軍は塁壁から出てこなかった。趙王は、しばしば廉頗の戦い方を責めた。秦の宰相・応侯(おうこう,范雎・はんしょ)は、また人を送って趙に千金をばらまいて離反工作をして、「秦が警戒しているのは、ただ馬服君(ばふくくん,趙奢)の子の趙括が将軍になることであり、それを恐れているだけなのだ。」という噂を流した。

趙王は以前から、廉頗の軍に戦死者・逃亡者が多く、何度も敗戦しているのにかえって塁壁を堅固にするばかりで廉頗が戦わないのを怒っていたところに、また秦の離反工作の噂を聞いたので、趙括を廉頗に代えて将軍にし、秦軍を撃たせた。秦は馬服君の子が将軍になったと聞くと、ひそかに武安君の白起を上将軍とし、王乞を副将にして、軍陣に武安君が将軍になったことを外に漏らした者は斬罪にするとふれた。趙括は到着すると、兵を出して秦軍を撃った。秦軍は偽って敗走し、伏兵を二手に配置して、趙軍を脅かす計画に出てきた。趙軍は勝ちに乗じて追撃し、秦の塁壁に迫ったが、塁壁中の秦兵が堅固に防いだので、突破することはできなかった。

秦の伏兵の一手の2万5千人が、趙軍の背後を断ち切り、また一軍の5千騎が趙軍とその塁壁の間の連絡を遮断した。そのため、趙軍は二分されて糧道が絶えてしまった。秦軍は軽装兵を出してこれを撃った。趙軍は利あらず、やむを得ずに塁壁を築いて堅守し、援軍の到着を待った。秦王は趙の糧道が絶えたと聞くと、自ら河内に趣き、住民にそれぞれ爵一級を賜い、15歳以上のものを徴発して長平へと差し向け、趙の援軍・糧食を遮断した。

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九月になると、趙の士卒は糧食を得られない日が46日にもなり、内部で密かに殺し合いをして食べるに至った。秦の防塁に攻撃を仕掛けて脱出しようとし、四隊を作って、4~5度にわたって繰り返したのだが、脱出することはできなかった。将軍・趙括は精鋭軍を率いて自ら奮戦したが、秦軍は趙括を射殺した。趙括の軍は敗れて、士卒40万人が武安君に降伏した、武安君は考えてから言った。「先に秦は上党を攻略したのだ。しかし、上党の住民は秦の民になることを悦ばず、趙に帰属した。趙の士卒は反覆の思いが強いから、これを皆殺しにしてしまわなければ、恐らく反乱を起こすだろう。」

そこで謀略にかけて、ことごとく坑(あなうめ)にして殺し、子供の240人だけを残して趙に帰らせた。前後と通して、首を斬った者、捕虜にした者は、45万人であった。趙の人々は、大いに震えて恐れた。

48年10月、秦は再び上党郡を平定した。秦は軍を二手に分け、王乞が皮牢(ひろう,山西省)を攻略し、司馬梗(しばこう)が太原(たいげん,山西省)を平定した。韓・趙は恐れて蘇代(そだい)に命じて、贈り物を厚くして秦の宰相・応侯に説いて言った。「武安君が馬服君の子を捕虜にしたのですか。」「そうだ。」「今度は邯鄲(かんたん)を包囲するのですか。」「そうだ。」

「趙が滅亡すれば、秦王は天下の帝王となり、武安君は三公(天子の補佐)に昇進するでしょう。武安君が秦のために戦勝し、攻撃して取ったところは、70余りの城市になります。南では、焉・郢・漢中を平定し、北では、趙括の率いていた全軍を捕虜にしました。あの周公旦(しゅうこうたん)・召公セキ(しょうこうせき)・太公望呂尚の功績といえども、武安君の功績には及びません。今、趙が亡びて、秦王が天下の帝王になれば、武安君が三公になることは必定です。あなたは武安君よりも下位になることに耐えられますか。いや、下位になることを望まないといっても、これはどうしてもやむを得ないことなのです。秦はかつて韓を攻めて、刑丘(けいきゅう,河南省)を包囲し、上党を苦しめましたが、上党の民はみんな秦に帰属せずにかえって趙に帰属しました。天下の人々が秦の民になることを悦ばない年月は、既に久しいものとなっております。今、趙を亡ぼせば、その北方の地は燕に帰属し、東方の地は斉に服し、南方の地は韓・魏に帰属し、あなたが獲ることのできる民は幾ばくもないでしょう。だから、今回の戦勝を利用して韓・趙に土地を割譲させて講和を結び、武安君の功績にさせないほうが良いでしょう。」

そして、応侯は秦王に言った。「秦軍は疲弊しております。韓・趙が土地を割譲して和を求めているのを許し、かつわが士卒を休養させたいと思います。」 秦王はこれを聴許し、韓の垣雍(えんよう,河南省)、趙の六城市を割譲させて講和した。正月に、兵をすべて引き上げさせた。武安君はこれを聞いて、このために応侯と仲違いをすることになった。

その9月、秦はまた兵を起こして、五大夫(秦の爵名)の王陵(おうりょう)に命じて、趙の邯鄲を攻めさせた。この時、武安君は病気のために出陣することができなかった。49年正月、王陵が邯鄲を攻めたが、その利益は少なかった。秦はますます兵を起こして王陵を助けた。しかし、王陵の軍は五人の将校を失った。武安君の病気が回復した。秦王は、武安君を王陵に代えて将軍にしたいと思った。武安君は秦王に言った。「邯鄲を攻めるのはとても容易なことではありません。更に諸侯の援軍が日々到着しています。あの諸侯が秦を怨んでいる年月は、久しいものがあります。今、秦は長平の敵軍を破ったとはいえど、秦の士卒の死者は半分を過ぎていて、国内の兵員も少ない状況なのです。遠く山河を越えて、外国の国都を攻めようとしているのです。趙軍が内から応戦し、諸侯の援軍が外から攻めてくれば、秦軍を破ることは必定でしょう。邯鄲は攻めるべきではないのです。」

秦王は自ら命じたが、武安君は出陣しなかった。王侯に要請させたが、武安君は辞退して遂に承諾せず、遂に病気と称してひきこもってしまった。

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