『史記 白起・王翦列伝 第十三』の現代語訳:2

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 白起・王翦列伝 第十三』の2について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 白起・王翦列伝 第十三』のエピソードの現代語訳:2]

秦王は、王乞(おうこつ)を王陵に代えて将軍にした。八~九月、王乞が邯鄲を包囲したが攻略できなかった。楚は春申君(しゅんしんくん)および魏公子(ぎこうし,魏の信陵君)に命じて、兵力10万を率いて秦軍を攻めさせた。秦軍は多くの死亡者・逃亡者を出した。武安君が言った。「秦は私の計略を聴きいれなかったが、今、どうなっているか。」 秦王はこれを聞いて怒り、強制して武安君を出陣させようとしたが、武安君は重病と称して断った。応侯が要請しても応じなかった。そこで武安君を罷免して一兵卒とし、陰密(いんみつ,甘粛省)に移住させることにした。武安君は病気でまだ出発できなかった。

三ヶ月が経つと、諸侯の軍が激しく秦軍を攻め、秦軍は何度も退却した。戦いの様子を告げる使者が何度も到着した。秦王は人々をやって白起を放逐して、咸陽(秦の国都)の中に留まれないようにした。武安君は出発して、咸陽の西門をでてから十里、杜郵(とゆう)に着いた。秦の昭王は、応侯及び群臣と議論してから言った。「白起は移住する時に、その意志は怏々として不服を抱いており、怨みの言葉も残した。」 秦王は使者を送って武安君に剣を賜い、自刎(じふん,自分で首を切る自殺)を命じた。

武安君はその剣を手元に引き寄せ、自ら首を刎ねようとして言った。「私は天に対してどんな罪を犯したために、このように自害する結果になってしまったのだろうか?」 しばらくしてから言った。「私は元々死ぬべきだったのだ。長平の戦いの時、趙の士卒で降伏した者が数十万人いたが、私は謀略によってこれをことごとく坑(あなうめ)にした。これだけでも死罪に足るのである。」 遂に自殺してしまった。武安君の死は秦の昭王の50年11月のことであった。死んだが自身が罪を犯したわけではなかったので、秦の人々はこれを憐れみ、地方の村里ではみんな祭祀をした。

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王翦(おうせん)は頻陽(ひんよう,陝西省)の東郷(とうきょう)の人である。若い時から兵法を好み、秦の始皇帝に仕えた。始皇帝の11年、王翦は将軍として趙の閼与(あつよ,山西省)を攻めて破り、九城市を抜いた。18年、王翦は将軍として趙を攻め、一年あまりで趙を攻略した。趙王は降伏した。趙の地をことごとく平定して郡とした。翌年、燕(えん)は荊軻(けいか)を派遣して、秦王を刺殺しようとした。秦王は王翦に命じて燕を攻めさせた。

燕王の喜(き)は遼東(りょうとう)に逃げて、王翦は燕の国都の薊(けい,河北省)を平定して帰還した。秦は王翦の子の王賁(おうほん)に命じて荊(けい,楚)を撃たせ、荊軍を破った。引き返して魏を撃った。魏王は降伏した。遂に魏の地を平定した。

秦の始皇帝は既に三晋を滅ぼし、燕王を逃走させ、何度も荊軍(楚軍)を破った。秦の将軍・李信は、年が若くて勇壮であった。かつて、兵力数千を率いて、燕の太子丹(たん)を追跡し、衍水(えんすい)の川の中で追いつき、丹の軍を破って丹を捕虜にしたことがあった。始皇帝は賢明で勇敢な人物だと思い、李信に尋ねた。

「私は荊(楚)を攻め取りたいのだが、将軍の考えではどのくらいの兵員の数がいれば足りるか?」 李信は答えて言った。「二十万人いれば良いでしょう。」 始皇帝は王翦に問うた。王翦は言った。「六十万人はいなければ不可能でしょう。」 始皇帝は言った。「王将軍は老いた。何と臆病なことか。李将軍は果たしてその勢いが勇壮である。その言葉は正しい。」

こうして、遂に李信及び蒙恬(もうてん)に命じて、二十万を率いさせて南の荊(楚)を伐たせた。王翦は意見が用いられなかったので、頻陽に隠居した。李信は平与(へいよ,河南省)を攻め、蒙恬は寝(しん)を攻め、大いに荊軍(楚軍)を破った。李信はまた焉・郢(えん・えい)を攻めてこれを破り、兵を率いて西進し、蒙恬と城父(じょうほ)で相会した。荊軍は李信の後を追い、三日三晩も休息せず、大いに李信の軍を破り、二ヶ所の塁壁に突入して七人の都尉(とい,将校)を殺した。秦軍は敗走した。始皇帝はこれを聞いて大いに怒り、自ら馬車を馳せて頻陽に赴き、王翦に会って陳謝して言った。

「寡人(わたし)が将軍の計略を用いなかったために、李信が秦軍を辱めてしまった。今、聞くところによると荊軍は日々進撃して西に向かっているそうだ。将軍は病気中ではあっても、寡人を見捨てるというのは忍びないのではありませんか(わたしを助けてくださるのではありませんか)。」 王翦は辞退して言った。「老臣は病み疲れて思考も乱れてしまっています、どうか大王は私以外の賢将をお選びください。」 始皇帝は謝って言った。「もう良い。将軍よ、二度とそんなことは言わないでくれ。」

王翦が言った。「大王がどうしても臣(私)をお用いになられるのであれば、臣もこれ以上辞退はしませんが、ただ60万人の兵を与えてくださらなければお引き受けすることはできません。」 始皇帝は言った。「将軍の言う通りにしよう。」 こうして、王翦は兵六十万人の将軍となった。始皇帝は王翦の出陣を、自ら覇水(はすい)のほとりまで送って行った。王翦は、その途中で上等の田畝・宅地・園池を頂きたいとしきりに請願した。始皇帝は言った。「将軍よ、行きなさい。どうして貧乏など心配する必要があるだろうか。」

王翦は言った。「大王の将軍たる者は、いくら戦功があっても侯に封ぜられることはありませんから、大王の気持ちが臣に向けられている間に、機を失わずに園池を請願して、子孫のために財産を為しておきたいのです。」 始皇帝は大笑いした。王翦は函谷関(かんこくかん)に到着してからも、使者を引き換えさせて、五回も上等の田畝を請願させた。ある人が、「将軍の請願は度を越している。」というと、王翦は答えた。「そうではない。あの秦王は粗暴で人を信じない。今、秦国内の武装兵を空にして、もっぱら委ねているのだ。その私が野心のないことを示すために、田畝・宅地を多く貰い受けたいと請うて子孫の財産を作り、地位を固めようとしないと、逆に秦王はすぐに私の謀反を疑ってしまうだろう。」

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こうして、王翦は李信に代わって荊(楚)を伐つことになった。荊は王翦が兵力を増強して、大軍勢を率いて攻めてくると聞くと、国中の兵を動員して秦を防ごうとした。王翦は着くと塁壁を堅固にして、これを守り戦おうとしなかった。荊軍がしばしば挑んできたが、とうとう塁壁から出てこなかった。王翦は毎日、士卒を休養・入浴させて飲食物も豊富に与え、手厚くねぎらって自分も士卒と同じ食事を食べた。しばらくして、王翦は陣中に人を送ってどんな遊戯をしているのかと尋ねさせた。兵士は答えて言った。「石を投げたり、飛んだりはねたりしています。」 それを聞いて王翦は言った。「よし。これで士卒を戦闘に用いることができる。」

荊軍はしばしば挑んだが、秦軍が出てこないので、引き上げて東に向かった。王翦はその機会に全軍を挙げて追跡し、壮士に攻撃させて大いに荊軍を破り、キ水(きすい)の南で荊の将軍・項燕(こうえん)を殺した。荊軍は遂に敗走した。秦軍は勝ちに乗じて、荊の地の城邑を攻略し平定して、一年余りで荊王・負芻(ふすう)を捕虜にし、ついに荊の地を平らげて秦の郡県制に組み入れた。そこによって南の方、百越(ひゃくえつ)の君主を征服した。王翦の子の王賁(おうほん)は、李信と共に燕・斉を破ってその地を平定した。こうして、秦の始皇帝の26年、ことごとく天下を併合したのである。王氏・蒙氏の功績は多く、その名声は後世にまで伝えられた。

秦の二世皇帝の時、王翦とその子の王賁は既に死に、秦はまた蒙氏まで滅ぼしてしまった。陳勝(ちんしょう)が秦に反乱を起こすと、秦は王翦の孫の王離(おうり)に命じて趙を撃たせた。王離は趙王と張耳(ちょうじ)を鉅鹿城(きょろくじょう,河北省)で包囲した。ある人が言った。「王離は秦の名将だ。今、強大な秦の兵を率いて、新しくできた趙を攻めている。必ず攻略するだろう。」 その人の客が言った。「違います。そもそも、三代にわたって将軍となる者は必ず敗れます。祖父・父が殺したり伐ったりした者が多いので、子孫がその不祥(縁起の悪さ)を受けるからです。今、王離は三代目の将軍なのです。」 それから間もなく、項羽(こうう)が趙を救援して秦軍を撃ち、果たして王離を捕虜にしてしまった。王離の軍は、遂に諸侯に降伏した。

太史公(たいしこう)曰く――古いことわざに「尺も短きところあり、寸も長きところあり」とある。白起は敵の力を測って(料って)事変に応じ、奇計を考え出すことに窮まりがなく、その名声は天下を震撼させた。しかし、王侯との間に生じた禍を切り抜けることはできなかった。王翦は秦の将軍として、六国を打ち破った。その当時、王翦は老練な宿将であり、始皇帝は師とまで仰いでいたのである。しかし、秦王を輔弼して徳を立て、国家の根本を堅固にすることができず、いたずらに始皇帝に合わせてその意志に適う態度を取り、そのまま没した。そして、孫の王離の代になって項羽に捕虜にされたが、当然のことだろう。白起・王翦にはそれぞれに短所があったのである。

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