『史記 孟嘗君列伝 第十五』の現代語訳:1

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 孟嘗君列伝 第十五』の1について現代語訳を紹介する。

スポンサーリンク

参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 孟嘗君列伝 第十五』のエピソードの現代語訳:1]

孟嘗君(もうしょうくん)は名を文(ぶん)、姓は田氏(でんし)という。文の父を靖郭君田嬰(せいかくくんでんえい)という。田嬰は斉の威王の末子で、斉の宣王の腹違いの弟である。

田嬰は威王の時代から要職について国事を預かり、成侯鄒忌(せいこうすうき)および田忌(でんき)と共に、将軍として韓を救援して魏を伐ったことがある。成侯は田忌と主君の寵愛を争って、田忌を売った。田忌は恐れて斉の辺境の邑(村)を襲ったが、勝てずに逃走した。たまたま、威王が死んで宣王が立つと、成侯が田忌を売ったことを知って、再び田忌を召し出して将軍にした。

宣王の二年、田忌は孫賓(そんぴん)・田嬰(でんえい)と共に魏を伐って、これを馬陵(ばりょう・山東省)に敗り、魏の太子・申(しん)を捕虜にして、魏の将軍・ホウ涓(ホウケン)を殺した。宣王の七年、田嬰は使者として韓・魏に赴いた。韓・魏は斉に服した。田嬰は韓の昭侯、魏の恵王を案内して、斉の宣王と東阿(山東省)の南で会合し、盟約を結んで去った。

翌年、再び梁(魏)の恵王と甄(けん)で会合した。この年に、梁の恵王が死んだ。宣王の九年、田嬰は斉の宰相になった。斉の宣王は魏の襄王と徐州(江蘇省)で会合して、お互いに王号を称することにした。楚の威王はこれを聞いて、(田嬰のためにこのような王号が増加する事態になったと思い)田嬰を怒った。翌年、楚は斉を伐って斉軍を徐州で敗り、使者を送って田嬰を斉から放逐しようとした。田嬰は張丑(ちょうちゅう)を派遣して、楚の威王を説得させたので、威王は田嬰の放逐をやめた。田嬰が斉の宰相を十一年務めた時に、宣王が死んだ。ビン王が即位した。即位して三年で、田嬰を薛(せつ)に封じた。

スポンサーリンク

田嬰には四十余人の子供がいた。身分の賤しい妾が産んだ子に、文と名付けた。文は五月五日に生まれた。田嬰は文の母に「育てるな。」と言ったが、その母は密かに養育し続けた。そして成長してから、母は文の兄弟にとりなしてもらい、子の文を田嬰に会わせた。

田嬰はその母に怒って言った。「私はお前にこの子を養育するなと命令したはずだ。どうして敢えて養育したのか。」 文は頓首して母の代わりに言った。「父上が五月生まれの子を養育しようとしないのはなぜですか。」 田嬰は答えた。「五月生まれの子は、身長が戸の高さまで成長すると、父母に害を及ぼすと言われているからだ。」

文は言った。「人はその命を天から受けて生まれるのでしょうか。」 田嬰が黙然としていると、文は更に言った。「命を天から受けるものであれば、父上は何も憂慮することはございません。命を戸から受けるものであれば、その戸を高くすれば良いだけです。高くすれば誰もその高さに至ることはできません。」 田嬰は言った。「その話はもうやめよ。」

暫く経ってから、文は暇を見計らって、父の嬰に言った。「子の子は何ですか。」 嬰は言った。「孫だ。」「孫の孫は何ですか。」「玄孫だ。」「玄孫の孫は何ですか。」「分からない。」 そこで文は言った。「父上が国事を預かり斉の宰相を務めているのは、今までで三王(威王・宣王・ビン王)に及んでいます。その間、斉の国土は広くならないのに、父上の家は富裕になり万金を積み重ねました。それなのに、門下に一人の賢者さえ見当たりません。文は『将軍の家門には必ず将軍があり、宰相の家門には必ず宰相がある』と聞いております。しかし、今、父上の後宮の婦人たちは、綾絹の衣服を地面にひきずるほどの贅沢をしているのに、国家の士人は粗末な毛織の衣服さえ身につけることができません。父上の僕妾は高級な米・肉を食べきれないほど余らせているのに、国家の士人は糟糠さえ十分に食べられません。今、父上は更に蓄積を厚くして貯蔵を有り余るほどに増やしたところで、亡くなった後に自分でも誰だか分からない何人(玄孫の孫以下の何者か)にそれを遺そうと望まれるのですか。公共の問題を忘れて斉の国事が日々損なわれているのは、文が密かにこれを怪しんでいる問題です。」

こういったやり取りがあって、嬰は文を礼遇するようになり、家事を主宰して賓客の接待をさせた。賓客は日々増加して、文の名声は諸侯にまで聞こえた。諸侯は皆使者を送って、薛公(せつこう)の田嬰に文を太子(後継)にすることを求めた。嬰はこれを聞き入れた。嬰が死ぬと、靖郭君と諡(おくりな)をした。果たして、文が代わって薛の領主になった。これが孟嘗君(もうしょうくん)である。

楽天AD

孟嘗君は薛に居住して、諸侯の賓客を招いた。罪を犯した逃亡者まで、みんな孟嘗君に帰属した。孟嘗君は財産を投げ打って、これらの人たちを厚遇した。それ故に、天下の人士を大勢集めて、食客は数千人になった。その食客の貴賤を区別せず、すべて自分と同等の待遇とした。孟嘗君が客と対座して語る時には、屏風の後ろに常に侍史(じし・記録官)がいて、孟嘗君が客と語って、親戚の居所を問うところを主に記録していた。

客が去ると、孟嘗君は使者を送って、その親戚を訪問させて物品を贈らせた。孟嘗君は客と共に夜食を食べたが、誰か一人が灯火を遮って暗くなると、客は食物に差別待遇があるから暗くしたのだと思い、怒って食事をやめて辞去しようとした。孟嘗君は立ち上がって、自ら食物を持っていて比べさせ同じものであることを示した。客は慚愧して(恥じ入って)、自剄して死んだ。士人はこのことで、さらに多くの者が孟嘗君に帰服した。孟嘗君は客を選ぶことなく、みんなを善遇した。人々はそれぞれ自分で、孟嘗君が自分に親しんでいると思っていた。

秦の昭王は孟嘗君の賢なることを聞いて、まず涇陽君(けいようくん)を人質として斉に送って、孟嘗君に会いたいと要求した。孟嘗君は秦に入ろうとした。賓客には行くことを望む者はなく、孟嘗君を諫めたが聴かなかった。蘇代(そだい)が言った。「今、代(わたし)が外からこちらに来る時、木人形と土人形が語り合っているのに出会いました。木人形が『雨が降れば、君は崩れてしまうだろう』と言うと、土人形は『私は土から生まれたのだから、崩れれば土に還るだけだろう。しかし、雨が降って君を流すと、君はどこまで流されて止まるのかさえ分からないだろう。』と言いました。今、秦は虎狼のような国です。それなのに、あなたは行こうとしています。もし、お帰りになることができないようなことがあれば、あなたは土人形が笑うところのものにならないでいられるでしょうか。」 孟嘗君は秦に入ることをやめた。

スポンサーリンク
楽天AD
Copyright(C) 2016- Es Discovery All Rights Reserved