『史記 黥布列伝 第三十一』の現代語訳:1

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 黥布列伝 第三十一』の1について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 黥布列伝 第三十一』のエピソードの現代語訳:1]

黥布(げいふ)は六(りく,安徽省)の人で、姓は英氏である。秦の時代には布衣の人(ほいのひと=庶民)であった。少年の頃、ある客がその人相を見て言った。「必ず刑罰を受けるが、その後に王となるであろう。」 壮年になってから法に坐して、黥(いれずみ)の刑に処された。布は欣然として笑って言った。「昔、ある人が私の人相を見て、必ず刑罰を受けるがその後に王になるだろうと言ったが、このことだろうか?」

これを聞いた人々はみんな布をからかって笑った。布は判決を受け、麗山(りざん,陝西省)に送られた、麗山の刑徒は数十万人いたが、布はその刑徒の首領や豪傑たちすべてと交際して、やがてその同輩たちを率いて長江付近に逃げ、群盗をしていた。陳勝(ちんしょう)が兵を挙げると、布はさっそく番君(はくん)に会って、その配下と一緒に秦に背き、兵数千人を集めた。

番君はその娘を布と結婚させた。秦の将軍・章邯(しょうかん)が陳勝を滅ぼし、呂臣(りょしん)の軍を破ると、布は兵を率いて北のかた秦の左右校尉(こうい)を撃って、これを清波(せいは)の地で破り、更に兵を率いて東進した。項梁(こうりょう)が江東・会稽(かいけい)を平定して、揚子江を渡って西進したと聞くと、陳嬰(ちんえい)は項氏が代々楚の将軍であったという理由で、兵を率いて項梁に帰属し、淮水(わいすい)を渡った。英布・蒲将軍(ほしょうぐん)もまた兵を率いて項梁に帰属した。

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項梁は淮水を渡って西進し、景駒・秦嘉(けいく・しんか)らを撃ったが、この時、布の軍は武勇の功績において諸軍で最も優れていた。項梁は薛(せつ,山東省)まで進んで、陳王が確かに死んだと聞いて、すぐに楚の懐王(かいおう)を立てた。項梁は武信君と号し、英布を当陽君(とうようくん)と呼んだ。項梁が定陶(ていとう,山東省)で敗死すると、懐王は都を彭城(江蘇省)に移した。

諸将や英布もまたみんな集まって彭城に立てこもった。当時、秦が急に趙を包囲し、趙は使者を送って救援を求めてきた。懐王は宋義(そうぎ)を上将に任命し、范増(はんぞう)を末将、項籍(項羽)を次将、英布・蒲将軍をみんな部将とし、全員を宋義の指揮下において、北の趙を救援させた。項籍が宋義を黄河のほとりで殺すと、懐王は項籍を上将軍に立てた。諸将はみんな項籍に帰属した。

項籍は布に命じて、まず黄河を渡って秦軍を撃たせた。布がしばしば勝利を得ると、項籍は全軍を率いて黄河を渡り、布の後に続き、遂に秦軍を破って章邯らを降伏させた。楚軍は常に勝ち、項籍の功績は諸侯に冠たるものであった。諸侯の軍がみんな楚に服属するようになったのは、布がしばしば寡兵で大敵を破ったからである。

項籍は兵を率いて西の新安(河南省)に着くと、また布らに夜襲を命じ、章邯の秦兵二十余万人を穴埋め(坑)にした。函谷関(かんこくかん)に到着してそこから攻めあぐねた時も、また布らに命じて、まず間道づたいで函谷関付近の秦軍を破らせ、遂に攻め入って秦の国都・咸陽(かんよう,陝西省)に到達したのである。布は常に軍の先鋒(せんぽう)を務めた。項王は諸将を封ずるに当たって、布を立てて九江王(きゅうこうおう)とし、六(りく)に都を置かせた。

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漢の元年(前206年)四月、諸侯はみんな戲(き,項羽の陣付近)の軍備を引き払って、それぞれ封国へと赴いた。項氏は懐王を立てて義帝(ぎてい)とし、長沙(ちょうさ,湖南省)に遷都させて、更に九江王の布らに命じて、これを襲撃させた。その八月、布はその部将に義帝を撃たせた。部将は林県(ちんけん,湖南省)で追いつき、帝を殺した。

漢の二年(前205年)、斉王の田栄(でんえい)が楚に背いた。項王は斉に出撃して、兵を九江で徴兵した。九江王布は病気と称して出陣せず、代わりに部将に命じて数千人を率いて従軍させた。漢が楚を彭城(ほうじょう)で破った時にも、布はまた病気と称して楚を助けなかった。項王はこれらのことで布を怨み、しばしば使者を送って問責し、布を召喚した。布はいよいよ恐れて、敢えて行かなかった。項王は北の斉・趙を憂え、西の漢に患えており、味方として頼れるのは九江王ひとりであった。また布の才能を評価していて、これを親任したいと思っていたので、まだ布を撃とうとはしなかったのである。

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