『枕草子』の現代語訳:13

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清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

『枕草子』は池田亀鑑(いけだきかん)の書いた『全講枕草子(1957年)』の解説書では、多種多様な物事の定義について記した“ものづくし”の『類聚章段(るいじゅうしょうだん)』、四季の自然や日常生活の事柄を観察して感想を記した『随想章段』、中宮定子と関係する宮廷社会の出来事を思い出して書いた『回想章段(日記章段)』の3つの部分に大きく分けられています。紫式部が『源氏物語』で書いた情緒的な深みのある『もののあはれ』の世界観に対し、清少納言は『枕草子』の中で明るい知性を活かして、『をかし』の美しい世界観を表現したと言われます。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

22段

すさまじきもの

昼ほゆる犬。春の網代(あじろ)。三、四月の紅梅の衣(きぬ)。牛死にたる牛飼。ちご亡くなりたる産屋(うぶや)。火おこさぬ炭櫃(すびつ)、地火炉(じかろ)。博士のうち続き女子生ませたる。方違へ(かたたがえ)に行きたるに、あるじせぬ所。まいて節分などはいとすさまじ。

人の国よりおこせたる文の、物なき。京のをも、さこそ思ふらめ。されどそれは、ゆかしき事どもをも書き集め、世にある事などをも聞けば、いとよし。人の許に、わざと清げに書きてやりつる文の返事(かへりごと)、今は持て来ぬらむかし、あやしう遅きと、待つほどに、ありつる文、立文(たてぶみ)をも結びたるをも、いときたなげに取りなし、ふくだめて、上に引きたりつる墨など消えて、「おはしまさざりけり」もしは「御物忌とて取り入れず」と言ひて持て帰りたる、いとわびしくすさまじ。

また、かならず来(く)べき人の許に、車をやりて待つに、来る音すれば、「さななり」と、人々出でて見るに、車宿(やどり)さらに引き入れて、轅(ながえ)ほうと打ちおろすを、「いかにぞ」と問へば、「今日は、他へおはしますとて、渡り給はず」など、うち言ひて、牛の限り引き出でて去ぬる。

[現代語訳]

22段

興醒めなもの(時節外れ・場違いで面白くないもの)

昼に吠える犬。春の網代。三~四月の紅梅の着物。牛が死んでしまった牛飼。赤ちゃんが死んだ産屋。火が起こらない炭櫃や地火炉。博士が続けて女の子を作った場合。方違えで行ったのに、ご馳走を出さない家。まして節分の時などにご馳走がないのはとても興醒めだ。

地方から送ってきた手紙に、何も贈り物がついていないこと。京から送った手紙でも、相手はそう思うだろう(贈り物がなければがっかりするだろう)。だが京からの手紙であれば、知りたい新たな事柄などが書き集めてあり、世の中で流行っている事・時勢なども知ることができるのだから、それでも良い。人の所に念入りに綺麗に書いてから持たせた手紙の返事、もう持って帰ってきても良い頃だが、なぜこんなに遅いのかといらいらして待っていると、さっき持たせた手紙を立文でも結び文でもそのまま持ち歩いていたので、ぐしゃぐしゃに汚くなっている、紙の地が毛羽立って、封印のための墨の線も消えてしまって、「相手はいらっしゃいませんでした」とか「物忌でしたので受け取って頂けませんでした」とか言って帰ってきたのは、とても情けなくて(せっかく綺麗に書いて送ろうとした手紙も汚れて台無しになって)興醒めである。

また、必ず来る予定になっている人の所に、お迎えの車を回して待っていると、車が帰ってきた音がするので、「来たようだ」と人々が近くにまで出て見ると、車は車庫にすぐに入ってしまって、轅を下に下ろしてしまったので、「どうしたのですか」と質問すると、「今日はよそにいらっしゃる予定がありますということで、いらっしゃいません」などと言いおいて、牛だけ車から外して引っ張っていってしまう。

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[古文・原文]

また、家のうちなる男君の、来ずなりぬる、いとすさまじ。さるべき人の宮仕へするがりやりて、はづかしと思ひゐたるも、いとあいなし。ちごの乳母(めのと)の、ただあからさまにとて出でぬるほど、とかく慰めて、「疾く来(とくこ)」と言ひ遣りたるに、「今宵はえ参るまじ」とて、返しおこせたるは、すさまじきのみならず、いとにくくわりなし。女迎ふる男、まいていかならむ。待つ人ある所に、夜少し更けて、忍びやかに門叩けば、胸少し潰れて、人出だして問はするに、あらぬよしなき者の名のりして来たるも、かへすがへすもすさまじといふはおろかなり。

験者(げんじゃ)の物怪(もののけ)調ずとて、いみじうしたり顔に独鈷(とこ)や数珠(ずず)など持たせ、せみの声しぼり出だして誦み(よみ)居たれど、いささかさりげもなく、護法もつかねば、集り居、念じたるに、男も女も怪しと思ふに、時のかはるまで誦み極(ごう)じて、「更につかず。立ちね」とて、数珠取り返して、「あな、いと験なしや」と、うち言ひて、額より上さまにさくり上げ、欠伸己うちして、寄り臥しぬる。いみじうねぶたしと思ふに、いとしもおぼえぬ人の、押し起して、せめてもの言ふこそ、いみじうすさまじけれ。

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[現代語訳]

また、家に居着いた婿殿が通ってこなくなるというのも、とてもつまらないものだ。身分があって宮仕えをしているしっかりした女に、その婿殿を取られてしまって、これは敵わないなと思ってしまうのも、何とも不甲斐ないものだ。赤ちゃんの乳母がほんの少しの間だけと言って外出した後に、何とか赤子を宥めて、「早く帰ってきて下さい」と言って使者をやったところ、「今夜は行くことができません」という返事を寄越してきたのは、がっかりするというだけではなく、とても憎らしくてもうどうしようもない。女を待っている男が、このような目に遭ったらどのように思うだろうか。約束した男を待っている家で、夜が少し更けてから、周囲を憚るように門を叩いている音がするので、嬉しくて少し胸が痛くなる感じがして、召使いを行かせて名前を聞かせると、違うどうでも良い男がわざわざ名乗ってやって来たのは、何度がっかりしてイライラしたと言っても仕方がないほどである。

験者が物怪を調伏しようとして、とても自信満々な顔をして、独鈷や数珠などを持たせて、甲高い声を絞り出すように陀羅尼を唱えていたが、少しも物怪が調伏させられるような様子もなく、護法の童子も現れた感じがないので、一家の男も女も集まって祈っていたのだが、みんながようやくおかしいと思い始めた頃、験者は決まった時間が過ぎるまで経典を読み続けて疲れきって、「どうも物怪が憑かない。立ちなさい」と言って、数珠を取り返して、「ああ、全く効き目がない」と言い捨てて、額から上に頭を擦り上げ、何と自分から大きな欠伸をして、寄りかかって寝てしまったのはあまりに興醒めだ。とても眠たいと思っている時に、大したことのない人が揺り起こしてきて話しかけてくるのは、とても面白くないし不愉快だ。

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