『枕草子』の現代語訳:76

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清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

このウェブページでは、『枕草子』の『九月ばかり、夜一夜降り明しつる雨の、今朝は止みて、朝日いとけざやかにさし出でたるに~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。

参考文献(ページ末尾のAmazonアソシエイトからご購入頂けます)
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

[古文・原文]

126段

九月ばかり、夜一夜降り明しつる雨の、今朝は止みて、朝日いとけざやかにさし出でたるに、前栽(せんざい)の露はこぼるばかり濡れかかりたるも、いとをかし。透垣の羅紋(すいがいのらんもん)、軒の上などにかいたる蜘蛛の巣のこぼれ残りたるに、雨のかかりたるが、白き玉を貫きたるやうなるこそ、いみじうあはれに、をかしけれ。

すこし日たけぬれば、萩などのいと重げなるに、露の落つるに。枝うち動きて、人も手触れぬにふと上様(かみざま)へあがりたるも、いみじうをかし、と言ひたることどもの、人の心には、つゆをかしからじと思ふこそ、またをかしけれ。

[現代語訳]

126段

九月の頃、一晩中、降り続いた雨が、今朝はやんで、朝日がとても鮮やかに射してきたのだが、庭の植え込みに置いた露は、こぼれんばかりに植木を濡らしているのも、とても風情がある。透垣の羅紋(すいがいのらんもん)、軒の上などに張り巡らした蜘蛛の巣が破れて残っているのに、雨の降りかかったものが、まるで白い真珠の玉を貫いているように見えるのは、とても趣きがあって面白い。

少し日が高くなると、とても重たそうな萩などが、露が落ちると枝が自然に動いて、人が手を触れないのにふと上の方へと起き上がったのも、とても面白い、と言ってきたことたちも、他の人の心には全く面白くないだろうと思うことも、また私には面白いのである。

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[古文・原文]

127段

七日の日の若菜を、六日、人の持て来騒ぎ、取り散らしなどするに、見も知らぬ草を子供の取り持て来たるを、(清少納言)「何とか、是をば言ふ」と問へば、頓にも言はず、「いさ」など、これかれ見合はせて、「耳無草(みみなぐさ)となむ言ふ」と言ふ者のあれば、「むべなりけり。聞かぬ顔なるは」と、笑ふに、また、いとをかしげなる菊の生ひ出でたるを持て来たれば、

(清少納言)摘めどなほ耳無草こそあはれなれあまたしあれば菊もありけり

と言はまほしけれど、またこれも、聞き入るべうもあらず。

[現代語訳]

127段

正月七日のお祝いの若菜を、六日、人が持ってきて騒いで、取り散らかしたりしていると、見たこともない草を子供たちが取って持ってきたのを、「これは何という草なの」と質問すると、すぐには答えず、「さあ」などとお互い顔を見合わせて、「耳無草(みみなぐさ)と言うんです」と言う子供がいるので、「なるほどね。聞いても知らない顔をしているのはその名前のせいだったのね」と笑うと、またとても風情のある菊の生えだしたものを持って来たので、

(清少納言)摘めどなほ耳無草こそあはれなれあまたしあれば菊もありけり

いくら摘んでもやはり耳無草は可哀想なものだ。沢山の草花の中には耳の聞こえる菊もあっただろうに。

と言ってやりたいけれど、またこの冗談も、子供たちには分からないだろう。

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