『中庸』の書き下し文と現代語訳:18

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儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは極端な判断を避けてその状況における最適な判断を目指す中庸(ちゅうよう)の大切さ・有利さを説いた『中庸』の解説をしています。『中庸』も『大学』と同じく、元々は大著『礼記』の中にある一篇ですが、『史記』の作者である司馬遷(しばせん)は『中庸』の作者を子思(しし)としています。

中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められている。『中庸』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていきます。

参考文献
金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『中庸』(講談社学術文庫),伊與田覺『『中庸』に学ぶ』(致知出版社)

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[白文]

在下位不獲乎上、民不可得而治矣。獲乎上有道。不信乎朋友、不獲乎上矣。信乎朋友有道。不順乎親、不信乎朋友矣。順乎親有道。反諸身不誠、不順乎親矣。誠身有道。不明乎善、不誠乎身矣。

[書き下し文]

下位に在って上(かみ)に獲られざれば、民得て治むべからず。上に獲らるるに道あり。朋友に信ぜられざれば、上に獲られず。朋友に信ぜらるるに道あり。親に順ならざれば、朋友に信ぜられず。親に順なるに道あり。諸(これ)を身に反そう(かえそう)として誠ならざれば、親に順ならず。身を誠にするに道あり。善に明らかならざれば、身に誠ならず。

[現代語訳]

自分の身分が下位にあって、上位の者から信任を得られないのであれば、民心を得て安定的に統治することなどできない。上位の者の信任を得るのには道がある。朋友に信用されなければ、上位の者からも信任されない。朋友に信用されるには道がある。親に従順であり親を喜ばせなければ、朋友に信用されない。親に従順であることには道がある。自分の身を反省して誠でなければ、親に従順とは言えず親は喜んでくれない。自分の身を誠にするには道がある。善を明らかにして実践していなければ、我が身は誠にはならない。

[補足]

儒教の基本的な徳性である『忠孝・信義・誠』について語られた部分であり、統治者(為政者)となるために、上位者から信任されるにはどうすれば良いのかという具体的な疑問の答えになっている。儒教の『身分秩序的な上下関係』を端的に示した章とも言える。

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[白文]

誠者、天之道也。誠之者、人之道也。誠者、不勉而中、不思而得、従容中道。聖人也。誠之者、択善而固執之者也。

博学之、審問之、慎思之、明弁之、篤行之。有弗学、学之弗能弗措也。有弗問、問之弗知弗措也。有弗思、思之弗得弗措也。有弗弁、弁之弗明弗措也。有弗行、行之弗篤弗措也。人一能之、己百之、人十能之、己千之。果能此道矣、雖愚必明、雖柔必強。

[書き下し文]

誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり。誠は勉めずして中り(あたり)、思わずして得て、従容(しょうよう)として道に中る。聖人なり。これを誠にするは善を択んでこれを固執する者なり。

博く(ひろく)これを学び、審らか(つまびらか)にこれを問い、慎んでこれを思い、明らかにこれを弁じ、篤くこれを行う。学ばざるあり、これを学んで能く(よく)せざれば措かざる(おかざる)なり。問わざるあり、これを問うて知らざれば措かざるなり。思わざるあり、これを思うて得ざれば措かざるなり。弁ぜざるあり、これを弁じて明らかならざれば措かざるなり。行わざるあり、これを行うて篤からざれば措かざるなり。人一たびこれを能くすれば己これを百たびし、人十たびこれを能くすれば己これを千たびす。果たしてこの道を能くせば、愚と雖も必ず明らかに、柔と雖も必ず強(きょう)なり。

[現代語訳]

自然な誠とは天の道である。これを何とか努力することによって誠にしようとするのが、人の道である。天性の自然な誠は努力をすることなく道に当たり、その天性の知は思索することなく道に到達し、何ら抵抗・苦労を感じることなく道に当たる。これができるのは聖人である。努力・勉強をして誠になろうとする者は、善悪を分別して善を選択した上で、その善の道に固執し善から離れないという者である。

物事を幅広く学んで、不明な所は詳しく質問をし、慎んで思索をして、善悪・理非を明らかに弁別して、それを真剣に実践するのが『努力して誠に至る道』だ。学ばないということもある、だがいったん学び始めたらよく分かるまでは途中でやめない。問わないということもある、だがいったん質問したらよく分かるまでは途中でやめない。思索しないということもある、だがいったん考えたらよく分かるまでは途中でやめない。弁別できないということもある、だがいったん弁別しようとしたらよく分かるまでは途中でやめない。実行しないということもある、だがいったん実行しようとしたらそれを篤く真剣に実行するまで途中でやめない。他人が一回するのであれば、自分は百回行い、他人が十回するのであれば、自分は千回行う。果たしてこのように道の実践に努力勉強をすれば、愚者といえども必ず賢明になり、意志が柔弱な者も必ず意志が強い者になれるのだ。

[補足]

儒教の天地自然に沿った原理である『誠』を、一般的な人間・凡人がどのようにすれば会得できるのかという方法論を説いた章である。ここでは『広範な領域の学習』と『諦めない努力・地道な勉強の継続』こそが、特別な聖人ではない凡人が『誠』に到達するための正攻法(正しい道)なのだとしている。

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[白文]

右第二十一章。子思承上章夫子天道人道之意、而立言也。自此以下十二章、皆子思之言、以反覆推明此章之意。

自誠明、謂之性。自明誠謂之教。誠則明矣。明則誠矣。

[書き下し文]

右第二十一章。子思(しし)上章(じょうしょう)の夫子(ふうし)天道人道の意を承けて、言を立つるなり。これより以下十二章は皆子思の言にしてもってこの章の意を反覆推明(はんぷくすいめい)するなり。

誠よりして明なるこれを性と謂う。明よりして誠なるこれを教えと謂う。誠なれば則ち明なり。明なれば則ち誠なり。

[現代語訳]

右第二十一章。この章は、子思が上章の孔夫子のおっしゃった天道人道の意志を受け継いで言葉を立てた。これより以下の12章はすべて子思が述べたものであり、この章の意志を反覆して推察し、内容を明らかにしたものである。

誠から発して善が明らかになる、これは天命・天道の性(聖人の徳)である。善を明らかにしてから誠となる、これは修身の教え・人道(賢人の学)である。誠であればそれは明(善の明らかさ)である。明(善の明らかさ)であればそれは誠なのである。

[補足]

『誠の徳』を会得するための道筋に、『天道・聖人の徳』と『人道・賢人の学』という二つの異なる道筋があることを示している章である。いずれの道を選んでも、『誠・自然』と『明・努力』の双方を身に付けることが出来るのだと教えている。凡人たる我々は、地道な努力・必死の勉強を継続することによって、『明(学問による善・道理の明らかさ)』を『誠(嘘偽りのない誠実さ・徳・真理)』へとつなげていくしかないのである。

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