中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。
『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 春申君列伝 第十八』の2について現代語訳を紹介する。
参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)
[『史記 春申君列伝 第十八』のエピソードの現代語訳:2]
昭王は言った。「よろしい。」 白起の出発を中止させて、韓と魏には断りを入れた。使者を出して楚に賄賂を送り、同盟国になることを約束した。黄歇(こうあつ)はその約束を受けて楚に帰った。楚は黄歇に命じて、太子完(たいしかん)と共に秦に入質に入らせた。秦が二人を留めて数年が経つと、楚の頃襄王(けいじょうおう)が病気になった。
太子はそれでも帰国できなかった。楚の太子は秦の宰相の応侯と親しかったので、黄歇は応侯に言った。
「相国(しょうこく)は本当に楚の太子と親しいのですか。」 「親しいですよ。」
黄歇は言った。「今、楚王は病気で恐らく治らないでしょう。秦は楚の太子を帰国させるに越したことはありません。太子が帰国して即位できれば、秦に仕えるのは丁重であり、相国を徳とすることに窮まりがないでしょう。これが、同盟国と親善して、徳を万乗の国に施すということです。もし帰国させなければ、太子は咸陽(秦の国都)のただの民の一人(布衣の人)に過ぎません。楚が改めて太子を立てれば、秦に仕えないのは必定でしょう。同盟国を失って、万乗の国との和親を断つのは、良計ではありません。願わくは、相国がこのことを熟慮して下さいますように。」
応侯がこれを秦王に聞かせると、秦王は言った。「楚の太子のお守役に、まず往って楚王の病状を問わせ、その使いが帰ってきてから考えるとしよう。」 黄歇は楚の太子のために考えていった。 「秦が太子を留めるのは、それで利益を得ようと求めているからです。しかし今、太子には秦に利益を与えるだけの能力がありません。私はそれをひどく心配しているのです。また陽文君(楚王の兄弟)の子がいるので、王がもしお亡くなりになり、太子が楚の国内(楚の宗廟)にいないとなると、陽文君の子が必ず立って王になるでしょう。太子は宗廟の祭祀を奉じることができなくなります。使者と共に秦から逃亡するに越したことはありません。私はここに留まって、死を持ってこの事態に当たりましょう。」
楚の太子は衣服を着替えて、楚の使者の御者になりすまして函谷関から出た。黄歇は太子の宿舎に留まり、常に病気と称して外に出なかった。太子がすでに遠くに去って、秦が追跡できなくなってから、黄歇は自ら秦の昭王に言った。 「楚の太子は既に帰国の途につき、函谷関を出て遠くに去りました。私の逃がした罪は死罪に当たります。どうか死罪を賜ってください。」 昭王は大いに怒って、その自殺を聴許しようとした。しかしその時に、応侯が言った。「黄歇は人臣として、身を投げ出して君主のために尽くしたのです。太子が即位すれば、必ず黄歇を登用します。ですから、無罪のままで帰らせて、楚と親善するに越したことはありません。」 秦は黄歇を送り返したのである。
黄歇(こうけつ)が楚に到着して三ヶ月経つと、楚の頃襄王(けいじょうおう)が崩御した。そして、太子完が即位したが、これが考烈王(こうれつおう)である。考烈王の元年、黄歇を宰相に任じて、封じて春申君(しゅんしんくん)とした。淮北の地の十二県を賜った。それから十五年後、黄歇が楚王に言った。「淮北(わいほく)の地は、楚の辺境で斉(せい)とつながっており、急を要する状況があります。どうか便宜を得るために郡として直轄してください。」 そして、自分の封邑(ほうゆう)の淮北十二県を併せて献上した。その代わりとなる封邑として江東(揚子江下流域の南部)を請うた。考烈王はこれを許した。春申君は昔の呉の城址(じょうし)に城を築き、自らの封邑とした。
春申君が楚の宰相になった時は、斉に孟嘗君、趙に平原君、魏に信陵君がいた。みんな士に謙譲し、賓客を招致しようとしていたが、お互いに影響力を傾けて有能な賓客を奪い合い、賓客の協力を得て国を助け、権力を握ろうとしていた。春申君が楚の宰相になってから四年、秦が趙の長平(ちょうへい)の軍四十余万を破った。五年には、秦が邯鄲(かんたん,趙の国都)を包囲した。邯鄲は危急を楚に告げた。楚は春申君に命じて、兵を率いて赴きこれを助けさせた。秦の軍隊が去ったので、春申君は帰国した。春申君が楚の宰相になって八年、楚のために北伐して魯を滅ぼした。荀卿(じゅんけい)を蘭陵(らんりょう,山東省)の長官に任じた。
この時、楚は再び強国となった。趙の平原君が、ある人を使者として春申君の元に送った。春申君はこれを上等の宿舎に宿泊させた。趙の使者は楚に誇ろうとして、タイマイの簪(かんざし)を造り、刀剣の鞘を珠玉で飾って、春申君の賓客に面会を申し込んだ。春申君の賓客は三千余人であったが、その中の上客たちが皆、珠玉の飾りのついた履(くつ)をはいて趙の使者にあった。趙の使者は大いに慚じた(はじた)。
春申君が宰相になってから十四年、秦の荘襄王(そうじょうおう)が即位し、呂不韋(りょふい)を宰相に任命して、文信侯(ぶんしんこう)に封じて、東周を取った。春申君が宰相になってから二十二年、諸侯は秦の攻伐にいつまでも終わりがないことを憂慮し、お互いに合従して、西の秦を伐った。楚王が合従の長となり、春申君が万事を取り仕切った。函谷関に到着すると、秦が兵を出して諸侯の軍を攻めた。諸侯の軍は皆、敗走した。楚の考烈王は、その咎(とが)を追及して春申君を責めた。春申君はこれによって、ますます考烈王に疎んじられるようになってしまった。
賓客の中に観津(かんしん)の人で朱英(しゅえい)という人がいて、春申君に言った。「人々はみんな、楚は強かったのにあなたの政治によって弱くなったのだと思っています。しかし私はそうだとは思いません。先君の時代に秦と二十年間、親しい関係にあって、秦が楚を攻めなかったのはなぜでしょうか。秦が黽隘(ぼうあい,河南省)の要塞を越えて楚を攻めることは不便であり、またその通路を東西の二周に借りて、韓・魏を背後に置いて楚を攻めるのが不可能だったからです。今はそうではありません。魏は朝夕の間に滅びようとしており、とても許・焉陵(きょ・えんりょう)を惜しむことなどできません。その許を、魏が割譲して秦に与えれば、秦軍は陳(楚の国都)を去ること百六十里の距離にまで迫ります。私の見る所では、秦と楚は日ごとに戦うことになるでしょう。」
楚は陳を去って、国都を寿春(じゅしゅん,安徽省)に移した。秦は衛を野王(やおう,河南省)に移して、その後に東郡を置いた。春申君は封領の呉に住み、そこで宰相の仕事をした。
楚の考烈王(こうれつおう)には子が無かった。春申君はこのことを心配して、子を産みそうな婦人を王に進めていた。その婦人の数は非常に多かったが、遂に子供は産まれなかった。趙人の李園(りえん)という者が、その美貌に恵まれた妹を楚王に進めたいと思ったが、彼女が子を持てそうにないというのを聞いて、久しい間に寵愛を失うのではないかと恐れた。李園は春申君に仕えたいと思っていて、その舎人(家来)となった。その後、休暇を得て帰国したが、わざと休暇の期限に遅れてから帰国して春申君に拝謁した。
春申君が遅れた理由を質問すると、答えて言った。「斉王が使者を通じて私の妹をお求めになりました。それでその使者と酒席を共にしていたので、期限に遅れてしまったのです。」 春申君は言った。「もう結納は済ませたのか。」 答えて言った。「まだです。」 春申君が言った。「会わせてもらうことはできるか。」「もちろんです。」
そこで、李園がその妹を進めたところ、春申君に寵愛された。そして、身ごもったことを知ると、李園は妹と謀略を巡らした。李園の妹が閑暇を伺ってから春申君に言った。「楚王があなたを尊重して厚遇される度合いは、王の兄弟であってもそれに及びません。今、あなたは楚の宰相を二十余年も務められ、王にはお子がありません。もし王に万一のことがあれば、王のご兄弟をあらためて王として立てるでしょう。楚が新しい君主を立てた後には、どなたが君主になられても、元々から親しかった人たちを尊重・厚遇することでしょう。あなたはどうしてそういった状況で厚遇を保つことができるでしょうか。それだけではなく、あなたは尊貴の地位にあって長く政治を行ってきて、王の兄弟に対して度々失礼に当たることもございました。その兄弟が本当に即位すれば、その禍いはあなたの身に及ぶでしょう。どうして宰相の印綬と江東の封領を保有していられるでしょうか。今、私は自分で妊娠していることを知っていますが、人々はそれを知りません。私があなたに寵愛されたことは久しいことではなく、あなたの厚遇された地位を用いて本当に私を楚王に進めて下されば、王は必ず私を寵愛なさるでしょう。私が天佑によって男子を産むことができれば、これはあなたのお子が王になられるということなのです。そうなれば、あなたは楚国をことごとく手に入れることができるでしょう。不測の罪をかぶせられるのと、どちらがよろしいでしょうか。」
春申君は大いにその通りだと思ったので、李園の妹を邸から出して、別の館を設けて住まわせ、楚王にその女を進めて申し上げた。楚王は王宮に召して寵愛し、遂に男子を産んだ。その子を太子として立てて、李園の妹を王后(おうごう)とした。楚王は李園を尊重し、李園は政務を取ることになった。
李園は既にその妹を王の元に入れて、妹は王后として立ち、その子は太子となっていた。そして、春申君の口から秘密が漏れてますます驕慢になることを恐れ、密かに決死の士を養成し、春申君を殺してその口をふさごうとした。しかし、国人の中にはその秘密を知っている者も多かった。春申君が宰相になってから二十五年、楚の考烈王が病気にかかった。
朱英が春申君に言った。「世の中には望外の福があり、また思いがけない禍いもあります。今、あなたはそのような思いがけない禍福が起こる世に処して、寵愛を恃むことができない君主に仕えておられますが、想定外の災難を排除できるような人材がいなくても良いのですか。」 春申君は言った。「何をもって思いがけない福というのか。」 答えて言った。「あなたは楚の宰相になられてから二十余年になります。名目は相国ですが、実は楚王です。今、楚王は病気で、朝夕の間にお亡くなりになろうとしておられます。これからのあなたは、幼少の君主を助けて、摂政として伊尹・周公(いいん・しゅうこう)のように国政に当たり、王が成長してから政権をお返しになるか、そうでなければ南面して孤(諸侯の王の自称)と称して楚国を保有されるかでしょう。これがいわゆる思いがけない福です。」
春申君が言った。「何をもって思いがけない禍というのか。」 答えて言った。「李園はあなたのせいで国政を治められないのであなたを仇とし、既に久しく将兵を治めずに決死の士を養成しています。楚王が亡くなれば、李園は必ず先に王宮に入って権力を掌握し、あなたを殺して口をふさぐでしょう。これがいわゆる思いがけない禍なのです。」 春申君は言った。「どんな人がどんな時にも災難を排除できる人材なのか。」 答えて言った。「私を郎中(近臣)の職に置いてください。楚王が崩御すれば、李園は必ずまず王宮に入るでしょう。私があなたのために李園を殺しましょう。これがいわゆるどんな時にも災厄を排除できる人材なのです。」
しかし春申君は言った。「そこまでにしておけ。李園は弱い人間である。私はまた彼を厚遇しているのに、どうしてそのような禍が起こることがあるだろうか。」 朱英は自分の言葉が採用されないことを知ると、禍いが我が身に及ぶことを恐れて、逃げ去ってしまった。
それから十七日後、楚の考烈王が崩御した。李園は果たしてまず王宮に入り、決死の士を棘門(きょくもん,楚の国都の寿春の城門)の内に伏せさせた。春申君が棘門に入ると、李園の決死の士たちが春申君を刺し、その頭を斬って棘門の外に投げ捨てた。そして遂に、官吏を派遣して春申君の家族を皆殺しにした。はじめ春申君に寵愛されて身ごもってから王の元に入った李園の妹が、男子を産んで即位した。これが楚の幽王である。
この年は、秦の始皇帝が即位してから九年であった。ロウアイもまた秦で乱を起こして、三族を皆殺しにされ、呂不韋(りょふい)が廃された。
太史公曰く――私は楚に赴いて春申君の故城・宮室を見たが実に素晴らしいものだった。初め、春申君が秦の昭王を説いたり、またその身を投げ出して楚の太子を帰国させたのは、何と素晴らしい知恵ではないか。その後、李園に制せられたのは、耄碌(もうろく)してしまったのだろう。古語に曰く、「正に決断すべき時に決断しないと、逆に禍いの害を受ける。」 春申君が朱英の進言を用いなかったのがそれであろうか。
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