『徒然草』の153段~156段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の153段~156段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第153段:為兼(ためかね)大納言入道、召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率て(ゐて)行きければ、資朝卿(すけとものきょう)、一条わたりにてこれを見て、『あな羨まし。世にあらん思ひ出、かくこそあらまほしけれ』とぞ言はれける。

[現代語訳]

為兼大納言入道が(鎌倉幕府への謀略の疑いで)召し捕らえられた。武士どもが取り囲んで六波羅探題(幕府による京都の監視機関)に連行する様子を、資朝卿は一条のあたりで見ていて、『あぁ、羨ましい。この世に生きたという思い出。為兼大納言入道のような生き方こそ望ましい』と言っていた。

後醍醐天皇の側近の日野資朝は、鎌倉幕府追討の陰謀に参加して佐渡ヶ島に配流されたが、1332年6月、元弘の乱の際に佐渡ヶ島で斬られた。

[古文]

第154段:この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集りゐたるが、手も足も捩ぢ歪み(ねじゆがみ)、うち反りて、いづくも不具に異様なるを見て、とりどりに類なき曲者なり、尤も愛するに足れりと思ひて、目守り給ひけるほどに、やがてその興尽きて、見にくく、いぶせく覚えければ、ただ素直に珍らしからぬ物には如かずと思ひて、帰りて後、この間、植木を好みて、異様に曲折あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植ゐられける木ども、皆堀り捨てられにけり。

さもありぬべき事なり。

[現代語訳]

資朝卿が東寺の門に雨宿りしたところ、かたわ者(身体障害者)たちが門の下に群れ集まっていたが、手足は捻じ曲がっていて、いずれも不具な異形をしており、それぞれが類稀な曲者であった。大いに面白いと思ってその様子を見守っていると、やがてはその興味も消えて、見るに堪えなくなり不快に思われてきた。ただ素直な珍しくもない身体には及ばないと思って、家に帰った後に、自分が趣味で好んでいた盆栽を見た、枝や幹の異様な曲がり具合を求めて楽しんでいたのは、あのかたわ者を愛でていたのと同じ事だと思い、急に興味が無くなってしまった。鉢に植えられた木々を、みんな土ごと捨ててしまったという。

当然のことである。

当時の身体障害者(不具者・不具ゆえの乞食)に対する貴族階級の差別意識が反映された段である。だが、当然ながら、差別を禁ずる『人権思想』が発生するには18世紀のヨーロッパ(フランス)の啓蒙主義やフランス革命を待たなければならず、日本では20世紀半ばまで『不具・奇形等の身体障害』に対する根強い社会的な差別意識が残存していた。

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[古文]

第155段:世に従はん人は、先ず、機嫌を知るべし。序(ついで)悪しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず。さようの折節を心得べきなり。但し、病を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、序悪しとて止む事なし。生・住・異・滅の移り変る、実の大事は、猛き河の漲り流るるが如し。暫しも滞らず、直ちに行ひゆくものなり。されば、真俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず。とかくのもよひなく、足を踏み止むまじきなり。

春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落つるも、先ず落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌し(きざし)つはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、持ちとる序甚だ速し。生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。

[現代語訳]

世間に従う人は、まず物事が上手くいく時機を知らなければならない。順序を間違うという事は、人の耳に逆らい、相手の心にも逆らうことになり、その事は成し遂げられないだろう。物事が上手くいく時節というものを心得なければならない。しかし、病気をすること、子どもを出産すること、死ぬということは、時機を上手く図ることもできず、順序が悪いからといって止まるという事もない。人の生命・住居・差異・消滅などが移り変わっていくが、これらの大事は、激しい流れの川が勢い良く流れていくようなものだ。僅かの間も流れが滞ることはなく、あっという間に流れ去っていく。だから、仏道修行でも俗世間での行為でも、必ず成し遂げようと思う事であれば、時機ということは関係がない。あれこれの準備などは必要ない、足を止めないことだ。

春が終わって夏になり、夏が終わって秋が来るというのではない。春は既に夏の気配を感じさせ、夏は既に秋へと通じており、秋はすぐに寒くなって、十月はの小春日和の肌寒い天気となり、すぐに草は青くなって、梅の蕾も出来てくるのである。枯れ葉が落ちるというのも、葉が落ちてから芽をつけるのではなく、木々で兆している新芽に堪えきれずに葉が落ちるのだ。 初春を迎える新芽の気を、内部に蓄えているが故に、枯れ葉はあっという間に落ちてしまう。

『生・老・病・死』が移り変わることも、この自然の推移と似ている。四季にはそれでも、定まった順序がある。だが、死期は順序を待つということもない。死は、必ずしも前より来るのではなくて、いつも背後に迫っているのだ。人は皆、死ぬ事を知ってはいるが、死は急には来ないものと思い込んでいるものの、死はいつの間にか予期していない時に後ろから迫る。沖の干潟は遥か彼方にあるけれど、潮は磯のほうから満ちてくるのである。

[古文]

第156段:大臣の大饗は、さるべき所を申し請けて行ふ、常の事なり。宇治左大臣殿は、東三条殿にて行はる。内裏にてありけるを、申されけるによりて、他所へ行幸ありけり。させる事の寄せなけれども、女院の御所など借り申す、故実なりとぞ。

[現代語訳]

大臣に任命された人が開催する宴会は、しかるべき所を申し請けて行うというのが、世の常である。宇治左大臣殿(1156年の保元の乱で崇徳上皇側に付き戦死した藤原頼長)は、東三条殿に人を集めて宴を開いた。ここは天皇の内裏であったが、大臣からの申請があって天皇は他所へ移動なされたのである。大層な縁故がなくても、皇后陛下の御所なども大臣がお借りすることがある。これが故実(古来からの儀式・慣例・習慣)である。

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