『平家物語』の原文・現代語訳28:『賀茂川の水、双六の賽、山法師~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『賀茂川の水、双六の賽、山法師~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

願立の事(がんだてのこと)

『賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞ我が御心に叶はぬ物』と、白河の院も仰せなりけるとかや。鳥羽の院の御時も、越前の平泉寺(へいせんじ)を山門へ寄せられける事は、当山を御帰依浅からざるによつてなり。『非を以て理とす』と宣下せられてこそ、院宣をば下されけれ。されば江帥匡房(ごうそつきょうぼう)の卿の申されしは、『山門の大衆、日吉(ひえ)の神輿(しんよ)を陣頭へ振り奉って訴訟を致さば、君はいかが御計らひ候ふべき』と申されければ、法皇、『げにも、山門の訴訟はもだし難し』とぞ仰せける。

去(い)んじ嘉保二年三月二日の日、美濃守源義綱の朝臣、当国新立(しんりゅう)の庄を倒す間、山の久住者圓応(えんおう)を殺害す。これによつて日吉の社司、延暦寺の寺官、都合三十余人申文(もうしぶみ)を捧げて陣頭へ参じたるを、後二条の関白殿、大和源氏、中務権少輔(なかつかさごんのしょうゆう)頼春に仰せて、これを防がせらるるに、頼春が郎等矢を放つ。やにはに射殺さるる者八人、疵(きず)を蒙る者十余人、社司・諸司四方へ皆逃げ去りぬ。これによつて山門の上綱等、子細を奏聞の為に、おびただしう下洛すと聞えしかば、武士・検非違使、西坂本に行き向つて、皆追つかへす。

さる程に、山門には、御裁断遅々の間、日吉の神輿を根本中堂へ振り上げ奉り、その御前にて真読の大般若を七日読みて、後二条の関白殿を呪詛し奉る。結願の導師には、仲胤(ちゅういん)法印、その時は未だ仲胤供奉(ぐぶ)と申ししが、高座に上り、鉦(かね)打ち鳴らし、敬白(けいびゃく)の詞(ことば)に曰く、『我等が菜種の二葉よりおほしたて給ひし神たち、後二条の関白殿に鏑矢(かぶらや)一つ放ちあて給へ。大八王子権現』と、高らかにこそ祈誓(きせい)したりけれ。その夜やがて不思議の事ありけり。八王子の御殿より、鏑矢の声出でて、王城をさして鳴りて行くとぞ、人の夢には見えたりける。

その朝(あした)関白殿の御所の御格子を上げらるるに、ただ今山より取りて来たる様に、露に濡れたる樒(しきみ)一枝立つたりけるこそ不思議なれ。やがてその夜より、後二条の関白殿、山王の御咎(おんとがめ)とて、重き御病(おんやまい)を受けさせ給ひて、うち臥させ給ひしかば、母上大殿の北政所(きたのまんどころ)、大きに御歎きあつて、御様(おんさま)をやつし、賎しき下臈(げろう)のまねをして、日吉の社へ参らせ給ひて、七日七夜が間祈り申させおはします。

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[現代語訳・意訳]

『賀茂川の水、双六のサイコロ、山法師、これらが私の心の思い通りにならないもの』だと、白河上皇もおっしゃったと言う。鳥羽院の御代に越前の平泉寺が延暦寺に寄進されたのは、朝廷の延暦寺に対する帰依が浅くないからでもある。『道理に適っていなくても道理とする』と、鳥羽上皇が宣下されて院宣が下ったからである。そこで江帥匡房卿が、『山門(比叡山)の大衆が日吉の神輿を、宮中に向かって振り回して訴訟を起こしたならば、帝はどのような取り計らいをなされますか』と申し上げると、法皇は『山門の訴えを、放っておくことはできない』と仰せられたのだ。

去る嘉保二年の三月二日、美濃守・源義綱朝臣が美濃の国に新しく作られた荘園を廃止しようとするため、比叡山に長年住んでいる円応と言う僧を殺害した。この事件により、日吉神社の社司や延暦寺の寺官ら合わせて三十人余りが、訴状を持って宮中に押し寄せてきた。後二条関白・藤原師通は大和源氏の中務権少輔頼春に命じて、この訴訟を防がせようとしたが、その時に頼春の家来が矢を放った。突然の攻撃で八人が射殺され、怪我をした者は十人以上になり、社司・寺官らはみんな散り散りになって逃げた。この出来事によって、延暦寺の高僧たちが詳しい事情を聞くため、大勢の人数を従えて山を下ってくると聞き、武士・検非違使らは西坂本に向かって進み、この山門の集団を追い返した。

そうこうしていると、山門は朝廷の御裁断がいつまで待っても下りてこないので、日吉神社の神輿を比叡山延暦寺の根本中堂で振り上げて、その前で大般若経全巻を七日間かけて読み通し、後二条関白殿を呪詛した。呪詛を行う結願の導師は仲胤供奉(後の仲胤法印)だったが、高座に上がって鐘を鳴らし仏前に向かって、『我々がまだ幼かった頃より育ててくれた神々よ、どうか後二条の関白殿に鏑矢の一つを当てて下さい。大八王子権現!』と声も高らかに祈誓したのである。その夜に不思議なことが起こった。八王子権現の社から、鏑矢が放たれるような鋭い音がして、宮中へ向かって飛んでいくという夢を見た人が出たのだった。

翌朝になって、関白・師通殿の御所の格子を上げてみると、まるで今山から採ってきたような露に濡れた樒(しきみ)が一枝だけ立っているという不思議な情景があった。すぐにその夜から、後二条の関白殿は山王の罰の影響なのか重い病にかかって寝込んでしまった。母上の大殿・北の政所は大変そのご病状を嘆かれて、姿をやつして卑しい下臈の姿となり、日吉神社に参詣して七日七夜にわたって病気平癒を祈り続けられたのだった。

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