『平家物語』の原文・現代語訳19:さる程に、嘉応元年七月十六日~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『さる程に、嘉応元年七月十六日~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

殿下の乗合の事

さる程に、嘉応元年七月十六日、一院御出家あり。御出家の後も、萬機の政を知ろし召されければ、院・内、分くかたなし。院中に近う召使はれける公卿・殿上人、上下の北面に至るまで、官位俸禄みな身に余るばかりなり。されども人の心の習ひにて、なほあきたらで、『あつぱれ、その人の失せたらば、その國はあきなん。その人の亡びたらば、その官にはなりなん』など、疎からぬどちは、寄り合ひ寄り合ひささやきけり。

一院も内々仰せなりけるは、『昔より代々の朝敵を平げたる者多しといへども、いまだかやうの事はなし。貞盛・秀郷(ひでさと)が将門を討ち、頼義が貞任(さだとう)・宗任(むねとう)を滅し、義家が武衡(たけひら)・家衡(いえひら)を攻めたりしにも、勧賞(かんじょう)行はれし事、わづか受領(ずりょう)には過ぎざりき。今清盛がかく心のままにふるまふ事こそ、しかるべからね。これも世末になりて、王法の尽きぬる故なり』とは仰せなりけれども、ついでなければ、御戒(おんいましめ)もなし。

平家も又別して、朝家を恨み奉らるることもなかりしに、世の乱れ初めける根本は、去(い)んじ嘉応二年十月十六日に、小松殿の次男、新三位の中将資盛(すけもり)、その時は未だ越前守とて生年十三になられけるが、雪は斑(まだら)に降つたりけり、枯野の気色まことに面白かりければ、若き侍ども、三十騎ばかり召具して、蓮台野(れんだいの)や、紫野・右近の馬場に打出でて、鷹ども数多(あまた)すゑさせ、鶉(うずら)・雲雀(ひばり)を追い立て追い立て、終日(ひねもす)に狩り暮し、薄暮に及びて六波羅へこそ帰られけれ。

その時の御摂録(ごせつろく)は、松殿にてぞ、ましましける。東の洞院の御所より、御参内(ごさんだい)ありけり。郁芳門(いくほうもん)より入御(じゅぎょ)あるべきにて、東の洞院を南へ、大炊(おおい)の御門を西へ、御出(ぎょしゅつ)なるに、資盛朝臣(あそん)、大炊の御門、猪熊(いのくま)にて、殿下の御出(ぎょしゅつ)に鼻突(はなつき)に参り合ふ。御供の人ども、『何者ぞ、狼藉なり。御出なるに。乗物より下り候へ下り候へ』といらでけれども、余りに誇り勇み、世を世ともせざりける上、召具したる侍どもも、皆二十より内の若者どもなれば、礼儀骨法(こっぽう)弁へ(わきまえ)たる者一人もなし。

殿下の御出とも云はず、一切下馬の礼儀にも及ばず、ただ駆け破つて通らんとする間、暗さは暗し、つやつや太政入道の孫とも知らず、又少々は知りたれども、そら知らずして、資盛朝臣を始めとして、侍ども、皆馬より取つて引き下ろし、頗る恥辱に及びけり。

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[現代語訳・注釈]

そして、嘉応元年七月十六日に、後白河院は御出家なされた。御出家された後も、全ての政務をお取りになられたので、院と内裏の区別がなくなった。院の中で、お側に仕えている公卿・殿上人、上下の北面の武士に至るまで、官位・俸禄は身に余る厚遇である。しかし、人の心の習いであるが、それでも満足できずに、『あぁ、その人が亡くなったら、その国の国司が空くだろう。その人が滅びたら、私がその官位を得られるだろう。』などと、親しい者同士の間で、寄り合っては囁きあっていた。

後白河法皇が内々でおっしゃるには、『昔から代々の朝敵を平定した者は多いが、まだ平家のような例はない。平貞盛や藤原秀郷が平将門を討ち、源頼義が安倍貞任・宗任の兄弟を滅ぼし、源義家が清原武衡・家衡の親子を攻めた時も、論功行賞が行われたのだが、彼らはそれでもただの受領(国司である公家の代官)に過ぎなかった。平清盛がこのように心のままに振る舞うのは、好ましい事ではない。これも末世の時代になって王法の効果が尽きてしまったからである。』ということだが、機会がなかったので、清盛を戒められる事もなかった。

平家もまた、別に朝廷を恨むようなことも無かったが、世が乱れ始めた根本は、さる嘉応二年十月十六日に、小松殿(平重盛)の次男、新三位中将の資盛が、その時はまだ越前守で13歳になったばかりであったが、雪がまばらに降った枯野の景色が、本当に綺麗だったので、若い侍どもを三十騎くらい引き連れて、蓮台野や紫野、右近の馬場にでかけて鷹を多数使って、ウズラや雲雀を追い立てて、一日中狩りをして過ごし、薄暗い薄暮になってから六波羅へとお帰りになられた。

その時の摂政は松殿(藤原基房)であらせられた。東洞院の御所からご参内なされた。郁芳門から御所に入らなければならないので、東洞院を南へ、大炊御門を西へと進まれていくが、資盛朝臣は大炊御門の猪熊で、摂政の一行と鼻を付き合わせる形で遭遇する。摂政のお供の人々が、『何者であるか、無礼であるぞ。摂政様のお出ましである。乗物(馬)から下りろ、下りろ。』とイライラと言った。資盛一行は余りに自惚れて勇んでおり、世の中の道理を軽んじている上に、引き連れている侍どもは20歳以下の若者なので、礼儀作法を弁えている者は一人もいない。

殿下のおでましを無視して、一切、下馬の礼儀も取らず、駆け破って通ろうとする。暗さが増していたので、まったく入道相国(清盛)の孫だとは知らず、あるいは少々知っていたかもしれないが、知らない振りをして、資盛朝臣をはじめとする侍たちをみんな馬から引きずり下ろして、酷い恥辱を与えたのである。

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