『平家物語』の原文・現代語訳14:昔より今に至るまで~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『昔より今に至るまで~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

二代の后の事

昔より今に至るまで、源平両氏、朝家に召使はれて、王化に随はず(したがわず)自ら朝権を軽んずる者には、互に戒めを加へしかば、世の乱はなかりしに、保元に為義(ためよし)斬られ、平治に義朝(よしとも)誅せられて後は、末々の源氏ども、或は流され、或は失はれて、今は平家の一類のみ繁昌して、頭をさし出す者なし。いかならん末の代までも、何事かあらんとぞ見えし。

されども鳥羽の院御安駕(ごあんが)の後は、兵革(ひょうがく)うち続いて、死罪・流刑・解官(けかん)・停任(ちょうにん)、常に行はれて、海内(かいだい)も静かならず、世間も未だ落居(らくきょ)せず。なかんづく永暦(えいりゃく)・応保(おうほう)の頃よりして、院の近習者(きんじゅうしゃ)をば、内より御戒(おんいましめ)あり、内の近習者をば、院より戒めらるる間、上下、恐れをののいて、安い心もせず。ただ深淵に臨んで、薄氷を踏むに同じ。

主上・上皇、父子の御間に、何事の御隔(おんへだて)かあるなれども、思ひの外の事ども多かりけり。これも世堯季(ぎょうき)に及んで、人梟悪(きょうあく)を先とする故なり。主上、院の仰せをば常は申し返させおはしましける中に、人耳目を驚かし、世以て大きに傾け申すことありけり。故近衛の院の后、太皇太后宮(たいこうたいこうぐう)と申ししは、大炊(おおい)の御門(みかど)の右大臣公能(きんよし)公の御娘なり。先帝に後れ奉らせ給ひて後は、九重の外(ここのえのほか)、近衛川原の御所にぞ、移り住ませ給ひける。前の后の宮にて、かすかなる御有様にて渡らせ給ひしが、永暦の頃ほひは、御年廿二三(にじゅうにさん)にもやならせましましけん、御盛(おんさかり)も少し過ぎさせおはします程なり。

されども天下第一の美人の聞えましましければ、主上色にのみ染める御心にて、ひそかに高力士(こうりょくし)に詔(みことのり)して、外宮に引き求めしむるに及びて、この大宮の御所へ、ひそかに御艶書あり。大宮あへて聞し召しも入れず。さればひたすら、はやほに顕れて、后御入内(ごじゅだい)あるべき由、右大臣家に宣旨を下さる。この事天下に於て、異なる勝事(しょうじ)なれば、公卿詮議ありて、各々意見を云ふ。

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[現代語訳・注釈]

昔から今に至るまで、源平両氏は共に朝廷に召し使われて、朝廷に従わなかったり朝廷を軽んずる者に対して、お互いに制裁を加えていた。そのお陰で、世の中は平和だったが、保元の乱で源為義が斬られ、平治の乱で源義朝が誅伐されてからは、源氏の一族は流されたり、殺されたりして、今は平家の一族のみが繁栄を謳歌し、源氏は誰も頭角を現せずにいる(高官にはなれずにいる)。このような平家の全盛期が、いつまでも続くかのように見えていた。

だが、鳥羽院が崩御されてから兵乱が続くことになり、死罪・流刑・欠官・停任が常に行われ、世の中が落ち着くこともままならない。永暦・応保の頃からは、後白河院の近習を二条天皇の側が粛清したり、逆に天皇側の近習を後白河院が戒めるという事があり、上下の家臣・庶民たちはこの争いを恐れて心の休まることが無い。毎日、深い湖で薄氷を踏むような気持ちである。

天皇と院の親子の間に、何かにつけて意見の対立が多くあったのだろう。これは世の中の道徳心が廃れて、人情が希薄となり人が凶悪になっているからだろう。二条天皇は後白河院のおっしゃることに何かと反対していたが、ある時、人々を驚かす不審な出来事があった。故近衛の院の后で、太皇太后宮と申される人は、大炊御門の右大臣・公能の娘である。帝がお亡くなりになってから、宮中を離れて近衛河原の御所に移り住まれる事となり、前の皇后宮として世間に目立たぬようにして質素に暮らしていた。永暦の頃には、お年は二十二、三歳であり、女盛りを少し過ぎた頃であったように思われる。

しかし、天下第一の美人として聞こえていたので、天皇はその美しさに魅了され、中国の玄宗皇帝が高力士に命じて外宮に美人を捜し求めていたように、大宮の御所にいるその娘へと密かに艶書(恋文)を送ったのだった。大宮は全く聞き入れる事がない。それならばと、事を公にして、后として正式に入内させるように右大臣家に宣旨を出された。これは天下の大事であり、公卿による会議が開かれて、それぞれが意見を述べた。

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