『平家物語』の原文・現代語訳11:妓王は、もとより思ひ設けたる道なれども、さすが昨日今日とは思ひもよらず~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『妓王は、もとより思ひ設けたる道なれども、さすが昨日今日とは思ひもよらず~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

妓王の事(続き)

妓王は、もとより思ひ設けたる道なれども、さすが昨日今日とは思ひもよらず。入道相国、いかにも叶ふまじき由、頻りに宣ふ間、はき拭ひ、塵拾はせ、出づべきにこそ定めけれ。一樹の陰に宿合ひ、同じ流れをむすぶだに、別れは悲しき習ひぞかし。いはんや、これは三年(みとせ)が間住み馴れし所なれば、名残も惜しく悲しくて、かひなき涙ぞすすみける。さてしもあるべき事ならねば、妓王、今はかうとて出でけるが、なからん跡の忘れ形見にもとや思ひけん、障子に泣く泣く一首の歌をぞ書き付けける、

もえいづるも 枯るるも同じ 野辺の草 何れか秋に あはではつべき

さて車に乗つて宿所へ帰り、障子の内に倒れ臥し、ただ泣くより外の事ぞなき。母や妹これを見て、『いかにや、いかに』と問ひけれども、妓王とかうの返事にも及ばず。具したる女に尋ねてこそ、さる事ありとも知つてげれ。さる程に、毎月送られける百石百貫をもおし止められて、今は佛御前のゆかりの者どもぞ、始めて楽しみ栄えける。京中の上下この由を伝へ聞いて、『まことや、妓王こそ、西八条殿より暇賜はつて出されたんなれ。いざや見参して遊ばん』とて、或は文を遣はす者もあり、或は使者をたつる人もありけれども、妓王、今さら又人に対面して遊び戯るべきにもあらねばとて、文をだに取入るる事もなく、まして使をあひしらふまでもなかりけり。妓王、これにつけてもいとど悲しくて、かひなき涙ぞこぼれける。

かくて今年も暮れぬ。明くる春にもなりしかば、入道相国、妓王がもとへ使者を立てて、『いかに妓王、その後は何事かある。佛御前が余りにつれづれげに見ゆるに、参つて、今様をも歌ひ、舞などをも舞うて、佛慰めよ』とぞ宣ひける。妓王とかうの御返事にも及ばず、涙を抑えて伏しにけり。入道重ねて、『何とて妓王はともかうも返事をば申さぬぞ。参るまじきか。参るまじくば、其のやうを申せ。浄海も計らふ旨あり』とぞ宣ひける。母とぢこれを聞くに悲しくて、泣く泣く教訓しけるは、『何とて妓王は、ともかうも御返事をば申さで。かやうに叱られ参らせんよりは』といへば、妓王涙を抑へて申しけるは、『参らんと思ふ道ならばこそ、やがて参るべしとも申すべけれ。なかなか参らざらんもの故に、何と御返事をば申すべしとも覚えず。

此の度召さんに参らずば、計らふ旨ありと仰せらるるは、定めて都の外へ出さるるか、さらずば命を召さるるか、これ二つにはよも過ぎじ。たとひ都を出さるるとも、歎くべき道にあらず。また命を召さるるとも惜しかるべき我が身かは、一度憂き者に思はれ参らせて、二度面(おもて)を向ふべしとも覚えず』とて、なほ御返事にも及ばざりしかば、母とぢ泣く泣く又教訓しけるは、

『天(あめ)が下に住まんには、ともかうも、入道殿の仰せをば、背くまじき事にてあるぞ。その上わごぜは、男女の縁、宿世、今に始めぬことぞかし。千年萬年とは契れども、やがて別るる中もあり。あからさまとは思へども、ながらへはつる事もあり。世に定めなきものは男女の習ひなり。いはんや、わごぜはこの三年が間思はれ参らせたれば、あり難き御情でこそ候へ。この度召さんに参らねばとて、命を召さるるまではよもあらじ。定めて都の外へぞ出されんずらん。たとひ都を出さるるとも、わごぜたちは年未だ若ければ、いかならん岩木のはざまにても、過さんこと易かるべし。我が身は年老い、齢(よわい)衰へたれば、ならはぬ鄙(ひな)の住居を、かねて思ふこそ悲しけれ。ただ我を都の中にて住みはてさせよ。それぞ今生(こんじょう)後生(ごしょう)の孝養にてあらんずるぞ』といへば、妓王、参らじと思ひ定めし道なれども、母の命を背かじとて、泣く泣く又立ち出でける心の中こそ無慚(むざん)なれ。

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[現代語訳・注釈]

妓王は以前から何時かはこのようなこと(入道の心変わり)があるだろうと思っていたのですが、さすがに昨日今日の話になるなどとは思いもよりませんでした。入道相国がしつこく退出せよと言ってくるので、部屋を掃除して、塵などを拾って片付けてから、出て行くことを決めました。たまたま出会った人と一本の木の下に座ったり、同じ川の水を飲むだけといった仲でも、別れというものは悲しいものです。ましてや三年も住み慣れた所ですので、余計に名残惜しくて悲しくて泣いても仕方が無いと分かってはいるのですが涙が止まりません。何時までもここにいることは出来ないので、祗王は思いきって出て行こうとしますが、自分が居なくなった跡の忘れ形見になればと、障子に一首の歌を書き付けました。

萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あはで果つべき

さて妓王は車に乗って宿所に帰ってきたのですが、部屋に倒れこんでひたすら泣くばかりです。母親や妹がこれを見て、どうしたのか、何があったのかと尋ねても妓王は何も答える事ができません。近くにいたお供の女に尋ねて、初めて泣いている理由を知りました。その内、毎月援助として送られていた百石・百貫の収入も入道相国から止められて、今度は仏御前に縁がある人々が初めて幸せな暮らしを送る事になりました。京中の人々は、この噂を聞き、『本当に妓王は西八条殿から暇を出されたようだ。それなら、一度参って妓王と遊びたい』と、手紙を出したり、使者を送ったりする者もいましたが、祗王は今更また人に会って遊ぶなんてことは出来ず、手紙を読まず、ましてや使いの者に会うといった事はしませんでした。妓王はとても悲しくて、涙が零れおちてしまいます。

こうして今年も暮れました。次の年の春になると、入道相国は妓王の元へ使者を遣わして、『どうしているか、妓王。その後は何か変わったことはないか。佛御前があまりに寂しそうにしているので、こちらに参って今様を詠ったり、舞などを舞って仏を慰めてくれないか』と伝えてきました。妓王は何も返事をすることは無く、涙をこらえて臥せてしまいました。入道は再び使いを送り、『どうして妓王は返事を返さないのだ。来るのか来ないのかはっきりせよ。この浄海にも考える所があるぞ』というお言葉を伝えてきます。母のとぢはこれを聞いて大変悲しみ、泣く泣く妓王に教え諭しました。『なぜあなたは返事も返さずに、このようなお叱りを受けているのですか』と。妓王は『参上しようと思えばすぐに返事は書けますが、参上する気持ちが無いので返事のしようが無いのでございます。

この度のお言葉にありましたように、あちらにお考えがあるという事は、きっと都を追い出されるか、あるいは命を取られるかのどちらかだと思います。たとえ都を追放されても嘆くほどのことでは無いし、また命を取り上げられても惜しいと思うような我が身ではないのです。けれど、一度は嫌われたのに、再びお会いすることなどは出来ません』と、涙を抑えながら申し上げ、更に返事を書こうとはしないので、母とぢは泣きながら説教をしました。『この世に住もうと思えば、どんなことがあろうとも入道殿のご命令に逆らう事は出来ないのですよ。

その上、あなたも男と女の前世からの因縁は今に始まったことではないことは知っているでしょう。千年万年と約束したような男女の仲でも、その内に別れてしまうものもいます。少しの付き合いと思っていても、生涯最期まで添い遂げることもあります。この世で定め難いものが、男と女の関係なのです。まして、あなたはこの三年間、あの入道殿のご寵愛を受けたのですから、ありがたいことなのです。この度のお呼びに参らないからといって、命を取られるなんて事はあり得ません。きっと、都の外へと追放されるくらいの事でしょう。たとえ、都を離れてもあなたはまだ若いので、厳しい自然の中、どのような所でも暮らすことは出来ます。しかし私は年老いて、体も弱ってきているので、慣れない田舎暮らしは考えるだけでも悲しいことです。せめてこの母を都に住み続けさせて欲しいのです。それが現世、来世における親孝行の道ではないですか』と言うと、妓王はそれまで行くまいと心に決めていたが、母の命令に背くことは出来ず、泣く泣く入道の元へ出掛けていく、その心中は余りにも悲しいものである。

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