『平家物語』の原文・現代語訳13:かくて春過ぎ夏たけぬ~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『かくて春過ぎ夏たけぬ~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

妓王の事(続き)

かくて春過ぎ夏たけぬ。秋の初風吹きぬれば、星合いの空を詠め(ながめ)つつ、天の戸渡る梶の葉に、思ふ事書く頃なれや。夕日の影の西の山の端に隠るるを見ても、日の入り給ふ所は西方浄土にてこそあんなれ。いつか我等も彼処(かしこ)に生れて、物も思はで過さんずらんと、過ぎにし方の憂き事ども思ひ続けて、ただ尽きせぬものは涙なり。たそがれ時も過ぎぬれば、竹の編戸を閉ぢ塞ぎ、灯かすかにかきたてて、親子三人もろともに、念仏して居たる所に、竹の編戸をほとほとと打叩くもの出で来たり。

その時尼ども肝をけし、『あはれ、これは、いひがひなき我等が念仏して居たるを妨げんとて、魔縁の来たるにてぞあるらん。尽だにも人も訪ひ来ぬ山里の、柴の庵の内なれば、夜ふけて誰かは尋ぬべき。僅かに竹の編戸なれば、あけずとも推し破らんことやすかるべし。今はただなかなかあけて入れんと思ふなり。それに、情をかけずして命を失ふものならば、年頃頼み奉る弥陀の本願を強く信じて、隙なく名号を唱へ奉るべし。声を尋ねて向へ給ふなる、聖衆の来迎にてましませば、などか引じょう(いんじょう)なかるべき。相構えて念仏怠り給ふな』と、互に心を戒めて、手に手を取り組み、竹の編戸をあけたれば、魔縁にてはなかりけり。佛御前ぞ出で来たる。

妓王、『あれは如何に、佛御前と見参らするは。夢かや、うつつか』と云ひければ、佛御前、涙を抑へて、『かやうの事申せば、すべてこと新しうは候へども、申さずば、又思ひ知らぬ身ともなりぬべければ、始よりして細々と、ありのままに申すなり。本よりわらはは推参の者にて、已に出され参らせしを、わごぜの申し状によつてこそ召し返されても候ふに、女の身の云ふがひなき事、我が身を心にまかせずして、わごぜを出させ参らせて、わらはがおし留められぬる事、今に恥しう傍痛くこそ候へ。わごぜの出でられ給ひしを見しに付けても、いつか又、我が身の上ならんと思ひ居たれば、嬉しとは更に思はず。障子に又、いづれか秋にあはではつべきと書き置き給ひし筆の跡、げにもと思ひ候ひしぞや。

いつぞや又わごぜの召され参らせて、今様を歌ひ給ひしにも、思ひ知られてこそ候へ。その後は在所を何くとも知らざりしに、この程聞けば、かやうに様をかへ、一つ所に念仏しておはしつる由、あまりに羨しくて、常は暇を申ししかども、入道殿さらに御用ひましまさず。つくづく物を案ずるに、娑婆の栄花は夢の夢、楽しみ栄へて何かせん。人身(にんじん)は受け難く、仏教には会ひ難し。この度泥梨(でいり)に沈みなば、多生コウ劫(たしょうこうごう)をば隔つとも、浮び上らん事難かるべし。老少不定の境なれば、年の若きを頼むべきにあらず。出づる息の入るをも待つべからず。かげろふ稲妻よりもなほはかなし。一旦の栄花に誇つて、後世を知らざらん事の悲しさに、今朝まぎれ出でてかくなりてこそ参りたれ』とて、被いたる(かづいたる)衣をうち除けたるを見れば、尼になりてぞ出で来たる。

『かやうに様をかへて参りたる上は、日頃の科(とが)をば許し給へ。許さんとだに宣はば、もろともに念仏して、一つ蓮の身とならん。それにもなほ心ゆかずば、これよりいづちへも迷ひ行き、いかならん苔の筵、松が根にも倒れ臥し、命のあらん限りは念仏して、往生の素懐(そかい)を遂げんと思ふなり』とて、袖を顔に押し当てて、さめざめとかきくどきければ、妓王、涙を抑へて、『わごぜのそれ程まで思ひ給はんとは、夢にも知らず。憂き世のさがなれば、身の憂きとこそ思ひしに、ともすればわごぜの事のみ恨めしくて、今生も後生も、なまじひにし損じたる心地にてありつるに、かやうに様をかへておはしつる上は、日頃のとがは露塵ほども残らず。今は往生疑ひなし。この度素懐を遂げんこそ、何よりも又嬉しけれ。

わらはが尼になりしをだに、世にあり難き事のやうに、人もいひ、我が身も思ひ候ひしぞや。それは世を恨み、身を歎いたれば、様をかふるも理なり。わごぜは恨みもなく歎きもなし。今年はわづかに十七にこそなりし人の、それ程まで、穢土を厭ひ浄土を願はんと、深く思ひ入り給ふこそ、まことの大道心ろは覚え候ひしか。嬉しかりける善知識かな。いざ諸共に願はん』とて、四人一所に籠り居て、朝夕仏前に向ひ、花香を供へて、他念なく願ひけるが、遅速こそありけれ、皆往生の素懐を遂げけるとぞ聞えし。されば、かの後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、妓王・妓女・佛・とぢ等が尊霊(そんりょう)と、四人一所に入れられたり。ありがたかりし事どもなり。

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[現代語訳・注釈]

このようにして春が過ぎて夏もたけなわになりました。やがて秋を告げる風が吹くと、七夕の空を眺めながら、天の川を渡る楫の葉に溜まる水を使って、墨を擦って願いごとを書く季節になりました。夕日の影が西山の端に隠れようとするのを見ると、あの下には西方極楽浄土があるのだろうかとふと思います。いつか私たちもそこに生まれ変わって、何も思い悩まずに過ごすことが出来ますようにと願うのですが、つい今までの辛い事柄を思い出したりして、涙が尽きません。黄昏時が過ぎて日も暮れたので、竹の網戸を閉じて、明かりを暗くし、親子三人が念仏を唱えていると、網戸をほとほとと叩く者が居ます。

三人の尼たちは恐ろしくなって、『あぁ、これは私たちみたいな人間が、念仏を上げているのを邪魔しようと悪魔がやってきたのではないだろうか。昼でも誰も訪ねてこない山里の粗末な庵に夜が更けてから、一体誰が訪ねてくるというのだろうか。竹の網戸くらいは開けるのを拒んでも、押し破って入ってくることは簡単です。むしろ今は網戸を開けてその者を中に入れようと思います。それに、情をかけずして命を失うというのであれば、いつも頼みにしている弥陀の本願をひたすら信じて、もっと熱心に念仏を唱えることにしよう。念仏の声を聞いて訪ねて来られた菩薩様のご来迎であれば、どうして引導を渡されることなどあるだろうか。決して念仏をやめるべきではない』と、お互いに心を引き締めて、手に手をとって竹の網戸を開けてみると、悪魔などではなく仏御前がそこにいました。

妓王が『一体これはどうしたのですか、あなたは仏御前ではありませんか。これは夢か幻か』と言うと、仏御前は涙をこらえて、『このようなことをお話するなど、今更わざとらしいと思うでしょうが、話をしなければ私が何も分かってないと思われてしまいますので、事の次第を初めからありのままにお話します。元々、私は入道殿に押しかけていった者であり、いったんは追い返された所をあなたのご配慮・お情けによって呼び返されました。女の身であれば思うようにならず、あなたを追い出して私が残る事になりました。今となれば、恥ずかしいことであり、またみっともなく感じて、申し訳ないと思っているのです。

あなたがお屋敷を出て行かれるのを見た時も、何時かは自分もあのようなひどい目に逢うのだろうと思い、とても嬉しいなどとは思いませんでした。また障子に『いづれかあきにあはではつべき(いつまでも飽きられずにいられるという事はない)』と書き置かれた筆の跡を見た時には、確かにその通りだと思いました。

またその後で、あなたが入道様に召し出されて、今様をお歌いになられた時にも、我が身の行く末が身に沁みて分かったのです。あなたの行く先も知らずにいましたが、この度、このようにご出家されて、念仏三昧の暮らしをされておられると聞き、余りに羨ましくて、いつも入道様にお暇を頂きたいとお願いしてきたのですが、許されませんでした。よくよく考えてみれば、この世の栄華なんてものは夢の中の夢に過ぎず、どれほど楽しくてもそれが一体何なのかと思うのです。

人間の肉体は授かることが難しくて、仏の教えには出会うことが難しいものです。この度、地獄に堕ちれば、どんなに長い時間をかけても、そこから浮かび上がってくることは難しいでしょう。老少不定というように、年老いたものが先に死ぬとは限らず、年が若いという事など何の意味もありません。吐いた息が再び戻ってくることがないように、陽炎・稲妻よりももっと儚いもので、一時の栄華・贅沢に溺れ、死んだ後のことを知らないことがただ悲しくて、今朝このような姿になって、館を人に紛れて出てきたのです』と言って被っていた着物を脱ぎますと、已に(剃髪した)尼僧の姿になっていました。

『このように髪を剃って参った上は、俗世での罪はどうかお許しください。もし許すとおっしゃって下されば、ご一緒に念仏を唱えて極楽浄土にて同じ蓮台に座りたいと思います。それでも駄目だとおっしゃるのならば、今から何処かに迷い歩いていき、どこかの苔の筵か松の根元にでも倒れ臥せて、命のある限り念仏を続けて往生するつもりです』と袖を顔に押し当てて、さめざめと泣きながら言うので、祗王も涙をこらえながら『あなたがそこまで思っておられるとは、夢にも知りませんでした。浮世の習いだと思いながらも、我が身の辛さにともすれば、あなたのことを恨んだり、現世も来世も中途半端でどこかやりそこなったような気持ちでいましたが、このようにあなたもご出家をされていますので、今までの恨みやしがらみなどは全てなくなりましたよ。今やもう、極楽往生は間違いのない所です。

この度、出家したいという日頃の願いをあなたが遂げられた事を、何よりも嬉しく思います。私が尼になった事について、世間では滅多に無いことのように言い、自分でもそう思っていました。私は世の中を恨んで我が身を嘆いていましたので、出家という道を選んだのも道理なのです。 ところが、あなたは特に恨みや嘆きもなく、今年わずか十七歳という若さで、それほどにこの穢土ともいえる現世を嫌って、浄土を願う気持ちが強いということは、あなたこそが本当の求道者なのだと思います。嬉しくなるほどの善知識ですね。さあ、一緒に極楽往生を願いましょう』と、四人一緒に庵に篭って、朝夕仏前に向って花やお香をお供えして、長年念仏を唱えていました。遅いか速いかの違いはありますが、みんなが極楽往生の願いを最期には遂げられたと聞いています。そういう事ですから、あの後白河法皇が建立された長講堂の過去帳にも、妓王、妓女、仏、とぢの尊霊と四人一緒にその名前が書き加えられているのです。(女たちが仏道修行の人生を貫いたというのは)ありがたい事です。

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