『平家物語』の原文・現代語訳16:さる程に、永萬元年の春の頃より~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『さる程に、永萬元年の春の頃より~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

額打論(がくうちろん)の事

さる程に、永萬元年の春の頃より、主上御不予(ごふよ)の御事と聞えさせ給ひしが、同じき夏の初めにもなりしかば、事の外に重らせ給ふ。これによつて、大蔵大輔(おおくらのたいふ)伊岐兼盛(いきのかねもり)が娘の腹に、今上一の宮の二歳にならせ給ふがましましけるを、太子に立て参らせ給ふべしと聞えし程に、同じき六月二十五日、俄に親王の宣旨蒙らせ給ふ。やがて其の夜受禅ありしかば、天下何となうあわてたる様なりけり。

その時の有識(ゆうしき)の人々の申し合はれけるは、先づ本朝に童帝の例を尋ぬるに、清和天皇九歳にして、文徳天皇の御禅(おんゆずり)を受けさせ給ふ。それは、かの周公旦の成王に代り、南面にして一日萬機(いちじつばんき)の政を治め給ひしになぞらへて、外祖忠仁公(ちゅうじんこう)幼主を扶持(ふち)し給へり。これぞ摂政の始めなる。鳥羽の院五歳、近衛の院三歳にて践祚(せんそ)あり。かれをこそ、いつしかなれと申ししに、これは二歳にならせ給ふ。先例なし。物騒がしともおろかなり。

さる程に、同じき七月二十七日、上皇終に崩御なりぬ。御年二十三。つぼめる花の散れるが如し。玉の簾、錦の張の内、みな御涙に咽ばせおはします。やがてその夜香隆寺(こうりゅうじ)の艮(うしとら)、蓮台野の奥、舟岡山に斂め(おさめ)奉る。御葬送の夜、延暦・興福両寺の大衆、額打論といふ事をし出して、互に狼藉に及ぶ。一天の君崩御なつて後、御墓所へ渡し奉る時の作法は、南北二京の大衆ことごとく供奉して、御墓所の廻に、わが寺々の額を打つことありけり。

先づ聖武天皇の御願、争ふべき寺なければ、東大寺の額を打つ。次に淡海公の御願とて、興福寺の額を打つ。北京には、興福寺に向へて、延暦寺の額を打つ。次に天武天皇の御願、教待和尚(きょうだいおしょう)、智証大師(ちしょうだいし)の草創とて、園城寺の額を打つ。しかるを山門の大衆、如何思ひけん、先例を背きて、東大寺の次、興福寺の上に、延暦寺の額を打つ間、南都の大衆、『とやせまし、かうやせまし』と詮議する処に、ここに興福寺の西金堂衆(さいこんどうしゅう)、観音坊・勢至坊とて聞えたる大悪僧二人ありけり。

観音坊は、黒糸縅(くろいとおどし)の腹巻に白柄の長刀(なぎなた)茎短かにとり、勢至坊は萌葱縅(もえぎおどし)の鎧着、黒漆の大太刀持つて、二人つと走り出で、延暦寺の額を切つて落し、さんざんに打ち破り、『嬉しや水、鳴るは瀧の水、日は照るとも、絶えずとうたへ』とはやしつつ、南都の衆徒の中へぞ入りにける。

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[現代語訳・注釈]

そうこうしている内、永万元年の春の頃から、二条天皇のご体調が優れないと言われており、同年の夏の始め頃に、ますます容態が重くなられた。そのため、大蔵大輔・伊岐兼盛の娘との間に生まれて、二歳になられたばかりの第一皇子を皇太子に立てることが話し合われ、同年六月二十五日に急いで親王に宣下された。そして、その夜の内に(六条天皇として)即位され、天下は何となく慌ただしくなったような様子である。

その時に、有職故実に詳しい有識者がお互いに話されていたが、本朝においてこのような幼帝の例があるのかを尋ねてみると、過去に清和天皇が九歳で文徳天皇から皇位を譲られたことがあった。これは、あの周王朝の周公旦が幼少の成王に代わって、代理で政務を司り天下を治められたことに倣ったもので、外祖父の忠仁公がまだ幼い主君(清和帝)を補佐されていた。これが、我が国の摂政の始まりと言われている。鳥羽天皇は五歳で、近衛天皇は三歳にして皇位に就かれたという先例がある。その時もまだ早すぎるのではないかと言われていたが、今回は、二歳で皇位に就くという。先例のないことである。世間は愚かにも物騒がしくなっている。

暫く経った、同年の七月二十七日、二条上皇が遂に崩御された。享年二十三歳、つぼみのままで花が散ってしまったようにも思われる。玉の簾、錦の張の内で、宮中の人々は涙を流してむせび泣いた。その夜、香隆寺の東北の蓮台野の奥にある船岡山に、二条帝の御遺体をお納め申し上げた。葬送の夜になると、延暦寺と興福寺の大衆が『額打論』ということを始めて、お互いに乱暴狼藉に及ぶことになった。額打論とは、天皇が崩御された際に墓所にお送りする時の作法であり、奈良・京都の寺院の大衆たちが大勢でお供をして、墓所の周りにそれぞれ自分たちのお寺の額を掛けるという慣習のことである。

まず聖武天皇の時代には、争い合う他の寺もないので、勅願によって東大寺が額を掛けた。淡海公・藤原不比等も勅願によって興福寺が額を掛けた。次は南都の興福寺に対する寺として、北京の延暦寺が生まれて額を打つようになった。次に天武天皇の勅願によって、教大和尚と智証大師が開山した園城寺が額を打った。だが、延暦寺の大衆が何を思ったのか、先例に反して東大寺の次、興福寺よりも先に順番を抜かして、延暦寺の額を打ってしまったが、南都の大衆たちは、この無法な振る舞いをどうしてくれようかと相談していた。興福寺には、西金堂衆のうちで観音房・勢至房の大悪僧と呼ばれる気の荒い二人の坊主がいた。

観音房は黒糸威の腹巻に白柄の長刀を短めに握っており、勢至房は萌黄威の腹巻に黒漆塗りの大太刀を持っていた。走り出ていき、延暦寺の額を切り落として散々に打ち砕いた。二人の悪僧は、『嬉しいな水、鳴るのは滝の水、日は照っているが水が絶えないようにと歌え。』と囃し立てながら、南都の寺院の衆徒の中に入っていってしまった。

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