『平家物語』の原文・現代語訳18:一院、還御の後~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『一院、還御の後~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

清水炎上の事(続き)

一院、還御の後、御前にうとからぬ近習者たち数多(あまた)候はれけるに、『さても不思議の事を申し出したるものかな。露も思し召しよらぬものを』と仰せければ、院中の切者(きれもの)に、西光法師(さいこうほうし)と云ふ者あり。をりふし御前近う候ひけるが、進み出でて、『天に口なし、人を以て云はせよと申す。平家以ての外に過分に候ふ間、天の御計らひにや』とぞ申しける。人々、『この事よしなし。壁に耳あり。恐ろし恐ろし』とぞ各(おのおの)ささやきあはれける。

東宮立の事

さる程にその年は諒闇(りょうあん)なりければ、御禊(ごけい)・大嘗会(だいじょうえ)も行はれず。建春門院、その時は未だ東の御方と申しける。その御腹に、一院の宮の五歳にならせ給ふのましましけるを、太子に立て参らさせ給ふべしと聞えし程に、同じき十二月二十四日にはかに親王の宣旨蒙らせ給ふ。明くれば改元ありて、仁安(にんあん)と号す。同じき年の十月八日の日、去年親王の宣旨蒙らせ給ひし皇子、東三条にて春宮(とうぐう)に立たせ給ふ。春宮は御叔父六歳、主上は御甥三歳、何れも昭穆(しょうぼく)に相叶はず。

但し寛和二年に、一条の院七歳にて御即位あり。三条の院十一歳にて春宮に立たせ給ふ。先例なきにしもあらず。主上は二歳にて御禅(おんゆずり)を受けさせ給ひて、わづか五歳と申しし二月十九日に、御位をすべりて、新院とぞ申しける、未だ御元服もなくして、太上天皇(だいじょうてんのう)の尊号あり。漢家・本朝これや始めならん。仁安三年三月二十日の日、新帝大極殿にして御即位あり。この君の位に即かせ給ひぬるは、いよいよ平家の栄花とぞ見えし。

国母建春門院と申すは、入道相国の北の方八条の二位殿の御妹なり。又平大納言時忠の卿と申すも、この女院の御兄なる上、内の御外戚なり。内外に付けて、執権の臣とぞ見えし。その頃の、叙位・除目(じょい・じもく)と申すも、ひとへにこの時忠の卿のままなりけり。楊貴妃が幸ひし時、楊国忠(ようこくちゅう)が栄えしが如し。世の覚え、時の綺羅、めでたかりき。入道相国、天下の大小事を宣ひあはせられければ、時の人、平関白(へいかんぱく)とぞ申しける。

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[現代語訳・注釈]

後白河院は御所にお帰りになられると、いつも側にいる近習たちに『それにしても、不思議な噂が流れたものよ。そのようなことは、露ほども全く思っていないのに』と仰せになられた。院の近習の中で切れ者と言われている西光法師が進み出て、『天に口無し。天意は人の口を使って言わせたほうがいいと言います。平家は身分不相応に出世をし過ぎており、天がそのように思し召されたのでしょう』と申し上げた。人々は『このことは、自分たちには関係が無い。壁に耳あり、誰が聞いているか分からない。恐ろしや、恐ろしや」と囁き合ったのだった。

さてその年は、二条院が崩御された後の服喪であるため、御禊(即位後の大嘗祭の前月に天皇自らが賀茂川などで行った禊)も大嘗会も行われなかった。建春門院(清盛の妻の時子の妹)は、当時は東の御方と申し上げていたが、後白河上皇との間に生まれた五歳の子を、皇太子に立てようとの話があり、同年の十二月二十四日、親王宣下が慌しくも行れた。翌年の八月に改元があって、仁安元年となった。同年の十月八日に、去年、親王の宣旨をお受けになられた皇子が、東三条の御所において東宮になられた。東宮は天皇の御伯父で六歳である、また天皇は東宮の御甥で三歳であり、儒教的な父子・長幼の道徳の順序が狂ってしまった。

ただし寛和二年に、一条天皇が七歳にして御即位をされ、三条天皇が十一歳で東宮に立たれている。そのため、先例が無いというわけではない。六条天皇は二歳で皇位を継いで、仁安二年二月十九日に、わずか五歳で譲位をされて新院となられたのである。まだ御元服もされていないまま、太上天皇(上皇)の称号をお受けになられたのである。これは、中国大陸の朝廷でも本朝(日本の朝廷)でも、初めての事である。仁安三年三月二十日、大極殿で新しい天皇(高倉天皇)が即位された。この平家と血縁が深い高倉帝が皇位にお就きになられた事で、今後もますます平家の栄華が続くかのように見えた。

国母の建春門院滋子と言われた方は、入道相国の妻である八条二位殿(時子)の御妹であられる。また平大納言の時忠卿と申す方は、この女院の御兄であり、宮中では外戚に当たる。こういった縁で時忠卿は宮中の内と外のことについて、権力を掌握する臣下となっていた。その時期の朝廷における叙位・除目(人事・任官)も、この時忠卿が思いのままに操っていた。中国の唐の楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を受け、そのお陰で兄・楊国忠が権力を握ったのと同じようなものである。世の人望、時代の優雅、時忠は絶頂期にあった。清盛公さえも天下の大事・小事を、時忠卿に相談されたので、この当時の人々は、時忠卿のことを平関白と呼んでいたほどである。

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