『平家物語』の原文・現代語訳17:山門の大衆、狼藉を致さば~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『山門の大衆、狼藉を致さば~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

清水炎上の事

山門の大衆(だいしゅ)、狼藉を致さば手向ひすべき所に、心深うねらふ方もやありけん、一言葉も出さず。御門(みかど)かくれさせ給ひて後は、心なき草木までもみな愁へたる色にこそあるべきに、この騒動のあさましさに、高きも賤しきも肝魂を失つて、四方へ皆退散す。同じき二十九日の午(うま)の刻ばかり、山門の大衆おびただしう下洛すと聞えしかば、武士・検非違使(けびいし)、西坂本に行き向つて防ぎけれども、事ともせず、おし破つて乱入す。

又何者の申し出したりけるやらん、『一院、山門の大衆に仰せて、平家追討せらるべし』と聞えしかば、軍兵内裏に参じて、四方の陣頭を堅めて警固す。平氏の一類皆六波羅へ馳せ集る。一院も急ぎ六波羅へ御幸(ごこう)なる。清盛公その時は未だ大納言の右大将にておはしけるが、大きに恐れ騒がれけり。小松殿、『何によつて只今さる御事候ふべき』と鎮め申されけれども、兵(つわもの)ども騒ぎ罵る事おびただし。されども山門の大衆六波羅へは寄せずして、そぞろなる清水寺に押寄せて、仏閣僧房一宇も残さず焼き払ふ。

これは、去んぬる御葬送の夜の、会稽の恥(かいけいのはじ)をきよめんがためとぞ聞えし。清水寺は興福寺の末寺たるによつてなり。清水寺焼けたりける朝(あした)、『観音火坑変成池(かんのんかこうへんじょうち)はいかに』と札に書きて、大門の前にぞ立てたりける。次の日又『歴劫不思議力(りゃくごうふしぎりょく)及ばず』と、返の札(かえしのふだ)をぞ打つたりける。

衆徒帰り上りければ、一院も急ぎ六波羅より還御(かんぎょ)なる。重盛の卿ばかりぞ、御送には参られける。父の卿は参られず。なほ用心の為かとぞ見えし。重盛の卿御送より帰られければ、父の大納言宣ひけるは、『さても一院の御幸こそ大きに恐れ覚ゆれ。かねても思し召し寄り、仰せらるる旨のあればこそ、かうは聞ゆらめ。それにも、なほうちとけ給ふまじ』と宣へば、重盛の卿申されけるは、『この事ゆめゆめ御気色にも御詞(おんことば)にも出させ給ふべからず。人に心付け顔に、なかなか悪しき御事なり。これに付けても、よくよく叡慮に背かせ給はで、人の為に御情を施させましまさば、神明三宝(しんめいさんぽう)加護あるべし。さらんに取つては、御身の恐れ候ふまじ』とて立たれければ、『重盛の卿はゆゆしう大様(おおよう)なる者かな』とぞ、父の卿も宣ひける。

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[現代語訳・注釈]

延暦寺の大衆は、狼藉をされた事に対して対抗しても良かったのだが、何か深い計略の考えがあってのことか、興福寺に対して一言の反論もしなかった。天皇が崩御されて心の無いはずの草木までが皆悲しんで憂いているのに、こんな騒動を起こすのは情けないことだと、上下の者は皆で退散した。同月の二十九日、午の刻の頃に、山門のおびただしい数の大衆が、京に攻め寄せてくると聞き、武士・検非違使が西坂本に向かって防ごうとしたのだが、大衆はそんな守りなどものともせずに、押し破って乱入してきた。

また誰が言い出したのだろうか、『後白河上皇が、比叡山の大衆に対して平家を追討せよ』と命じているという噂が聞こえて、軍兵が内裏に駆けつけて四方の陣頭で守りを固めた。平家の一族は皆で六波羅に集結して、後白河上皇も急いで六波羅に御幸された。平清盛公はその時はまだ大納言の右大将だったが、山門を大変に恐れて騒がれた。小松重盛殿は『何をそんなに騒ぐのか』と言って鎮めようとされたのだが、武士共は激しく騒ぎ立てて収まらない。しかし、延暦寺の大衆は六波羅を襲撃することなく、無関係な清水寺へと押し寄せて仏閣・僧坊をことごとく焼き払ってしまった。

このことで、延暦寺の大衆は先の葬送の際に受けた屈辱を晴らしたと言われている。清水寺は興福寺の末寺なのである。それを燃やした翌朝、『観音火坑変成池はいかに』と札に書いて大門の前に立てた(清水寺は観音菩薩を本尊としていたため)。すると、翌日にまた『歴劫不思議力及ばず』という返しの札が立った(観音のご利益は人知では測れず今回の火事もどうしようもなかったのだという言い訳の札)。

延暦寺の衆徒は比叡山へと戻ったので、後白河上皇も六波羅から院御所にお帰りになり、重盛卿だけが警護のために付き添った。重盛の父の清盛は同行しなかった。何かまだ用心をしているようである。重盛が院をお送りしてから帰られると、清盛公が『後白河院の御幸はとても畏れ多いことだ。以前より平家のことをよく思っておられず、平家追討の言葉も出されているから、このような噂が立つのだ。そなたも院には心を許し過ぎるなよ』とおっしゃった。

これを聞いた重盛卿は『この事は身振りにも言葉にも見せてはなりません。人にそのようなことを気づかれたりなどすれば、大変なことになりますよ。上皇の御叡慮に背くことなく、人のためにお情けを施すことが重要だと思います。そうすれば、神明三宝の御加護を受けて、御身は安泰であり何ものも恐れることはないでしょう。』と言って、六波羅を出発されたのだが、これを聞いた清盛公は『重盛の奴は大人物だな』と言われたのである。

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